1958年1月、小壷天書房から刊行された伊藤人誉(1913~2009)の短編小説集。装幀は有井泰。序文は室生犀星(1889~1962)。
たとへば小説「穴の底」には遂にすくひがたくて終つてゐるが、私はこの一篇には私自身も小説家のくせに、是非とも最後まですくひがほしかつた。すくひのない窮迫の命運はこれも止みがたいことだが、やはりすくひがほしかつたのだ。私がすでにさうであるから、おほ方の読者もこの希みを持つことに思はれる。
伊藤人誉は何日か山で雪の遭難にあつたときは、雪の中では泳いで渡るより他はないと言つた。これは実際の絶命的な策であろうが、私にはわすれない用意深い言葉であつた。伊藤人誉は山を愛し山をゆめに見る人である。私も幼少の年頃からただ一度登山したことのある、故郷の山だけを愛してゐた。登つたことのない山は愛することが出来ないものだ。この一つの山を私は三度も小説の中で書いたが、いくらでも書くことが次から生れてくるものである。
山にも街があり都会がある、伊藤人誉は恐らくこの言葉を彼自身の登山のたびに、いよいよ深はまりして感じてゐるに違ひない、たとへば「死人の意志」に於ける作者は、やはり当然すくはなければならない時にも、突つ放して了つてゐる。
いまどき敢然と山の小説を集めて一本にまとめることも、それ自体がすでに個性のものであるだけ、私は伊藤人誉のぽかんとしてゐる人格の中に、外側だけがさう見えるだけで、彼はやはり「穴の底」の内容をさばくものを持つてゐることに、注意ぶかく私は眼を向けなければならないと考へてゐる。
(「序/室生犀星」より)
目次
- 死人の意志
- 氷雪
- 青の湖
- 穴の底
- 雪仏
- ヴァイオリン協奏曲