2005年5月、龜鳴屋から刊行された伊藤人誉(1913~2009)の随筆。戦前戦後、馬込の室生犀星宅を留守番していた時代の回想。表紙は前田良雄の手摺木版。画像は普及本。
フィクションにしか興味のなかった私が「馬込の家」に手を着ける気になったのは、室生朝子にこういわれて頼まれたからである。「戦時中の自分(犀星)のことは、お父さまも書いていないし、誰も書いた人がいないの。そこだけが脱けているのよ。ジンヨさん書いてよ」
二十年か、もしかしたら三十年以上も前のことで、そのときに私の考えた表題は、犀星の詩の一行をそのまま使った「われはかの室生犀星なり」だった。書き上げたあとで、朝子が連れてきた出版社の人に見せると、本にしたいという意向をもらしていたが、なぜか実現しなかった。
二、三十年振りに原稿を取り出して、すこしばかり直した上、私はそれに室生朝子の結婚の裏話や、犀星の父親についての私の疑いや、晩年の犀星をめぐる女たちの話を書き加えた。古い記述と新しい記述のあいだが離れすぎているから、私自身の文章も変わったろうし、室生朝子が書いたものをそのまま取り入れた個所もあるので、波の立ち具合いに不揃いなところが見えるように感じている。しかしそれを直すには、初めから全部書き直さなければならない。今の私にはもうできそうもない。文章というものは、書けば書くほどうまくなるとは限らないが、変わることだけは確かである。
(「あとがき」より)
目次
- 一 この坂をのぼらざるべからず
- 二 美しからざれば哀しからんに
- 三 生きたきものを
- 四 小景異情
- 五 蛇をながむるこころ蛇になる
- 六 泥雀の歌
- 七 白菊や誰がくちびるになぞらへし
- 八 信濃山中
- 九 えにしあらば
- 十 杏っ子
- 十一 女ひと
「馬込の家」はなくならない 栃折久美子
あとがき