1958年8月、中外書房から刊行された深瀬基寛(1895~1966)の随筆集。装幀カットは佐野猛夫(1913~1995)。
来る十月十二目の日曜日に長かった私の教員生活から足を洗うことになる。その日は私の六十三回目の誕生日なのだが、京都大学の習慣でその日が停年退官日と定められている。それを機会にこれまでいろいろ御厄介になった知友の方々への御礼の意味もふくめて、主として『日本の沙漠のなかに』以後に書いた随筆を集めてみたいと思っていた。そこへひょっこり、
旧三高卒業の神戸の中外書房の高尾清君が現われて、同じく旧三高卒業の田宮虎彦君の『神戸、わが幼き日の………』という本を出したが、次は旧三高の先生で、私の先輩にあたる山本修二君の劇評集をいただくことになっているということであった。その次には何か私のものが予定されているとのことであった。
すべてが三高づくめで、三高と聞けばつい涙もろくなる私は一も二もなく承諾した。私は座右の切抜帳を同君に渡して適当なものを選んで印刷して貰うことにした。同君はとても熱心で、 印刷中にもいろいろ感想を寄越して私をはげましたり、同じく三高卒業の便利堂の中村桃太郎君を抱きこんで挿絵の原色版を作らせたり、 そうこうしているうちに、最初に考えていた随筆集のプランが二人の合作でかなりの質的変化を生ずる結果になってきた。
最初のプランで私の考えていたのは、孫娘を中心とした孫随筆のようなものだったのだが、同君の考えでは、われわれ二人の共通の記憶に残っている三高時代にかんするものも入れて欲しいということであった。構想をそういう風に切り加えてみると、私の記憶は過去から過去へとさかのぼって少年時代から幼年時代へ、さらに父母から祖父母へとどこまでも逆上する。それと同時に、孫娘を連れて時々遊びに来る長男にそのことを話してみたところ、彼が中学時代に彼の祖母がひとり淋しく留守をしてい郷里の土蔵の旧宅の写貞を彼のアルバムから抜き出してくれたり、さては地震のために半倒壊した郷里の土蔵のなかから彼が救出して密かに保存していたと袮する、私の中学一年生時代の暑中休暇日記を見せてくれたりした。このことを高尾君に話したところ、同君はそういうものも是非採録したい、また旧著のなかで発表ずみのものでもむかしの三高生にとって思い出の深いものは復活したいということであった。
そこで最初のプランが辻余曲折してご覧の通りのものが出来上った次第である。
巻頭に一括して最近の孫娘の起居動作を観察したものを据え、巻末に最近の著者の身辺雑記を報告したものを置き、その中間に、著者の書斎の読書余録のようなもの、三高時代の思い出、それに著者の市井雑音を挾み、さらに著者を起点として三代にさかのぼる「明治は遠く………」の郷里土佐の思い出ばなしを加えてみた。
全体のイントロダクションとして最初に載せた「故郷の喪失」の一文は、京大教養部英語研究室から出している『英文学評論』に最近に出したものだが、いわば著者自身の「故郷のメ々フイジイク」ともいうべきもので、多少理屈にわたっているが、或る友人のすすめに応じてこの場処に採録することにしだ。「ひょうたんと母」はすでに発表ずみの旧稿であるが、 他に母についての記録がないのでここに復活してみた。まるで「ひょうたんなまず」のような長たらしい駄文なので旧稿を九節に分割して通読の便宜を計ることにしだ。
巻末に頂戴した唐木順三氏の一文は同人雑誌『歴程』63号に載ったもの。いささか面はゆい記事もないではないが、思い出をたぐると、私が本職以外にこんな雑文など書き出す緒を最初に提供してくれたのが唐木さんなので、その紀念の意昧もふくめたつもりである。
考えてみれば、この一巻は三世代から四世代にわたる私の血縁記でもあるが、こんなものがともかくも一冊の書物として大ぴらに市井に顔を出すに至ったのは、主として今は喪失した三高という関西の小さなひとつの高校によって結ばれた、いわば「童心」の結果である。装幀は詩誌『骨』の同人、佐野猛夫君にお願いした。
専らこれら幾多の恩愛の結果として誕生したこの本はこれまで私の出した二十数巻の雑書のうちの最高運児ではないかと密かに信じている。
(「あとがき」より)
目次
序詞
- 故郷の喪失
- 萌え出るもの
- 萌え出るもの
- 陽気めがね
- 幼児のことば
- 軒の日だまり
- この年は
- 孫のほん
- 松尾孫日記
- 小児科医
- かなめの籬
- 春・遠からじ
- 書斎の塵
- 学者と学問
- 季節感
- 手紙
- 中流の随筆
- 私の本だな
- 書斎の古女房
- 英語勉强の思い出
- すばらしき新世界
- 壺とともに
- ゲテモノに寄せる愛情
- はだか一貫
- 流す
- ねずみの學校
- 遠い道
- ねずみの学校
- 輓近講読風景
- 捨てる神・拾う神
- 歌とスポーツ
- 街頭錄音
- 或る学生との対話
- わが鎭痛剤
- 酒場
- 登志坊
- 三世代
- わが三世代論
- ある旅の日に
- 戦時小閑
- わが青春記
- 武市半平太の絵
- 祖母懐
- 親と子
- 夫婦げんか
- 母―酒―画
- 春日暮色
- ひようたんと母
- 坐我春風
- 暗い日曜日異変
- 映画とおでん屋
- 借金というもの
- 観光道路の矛盾
- おヘソのはなし
- 紅もゆる吉田山
- 東京から京都へ
- 人生の味
- 附錄
- 迷惑帳序文
- 暑中休暇日記
- 深瀨老近事・唐木順三
あとがき