1959年4月、文藝春秋新社から刊行された高見順(1907~1965)の日記。
一、昭和二十年の私の日記の拔萃が『交藝春秋』に「暗黒時代の鎌倉文士」「敗戰日記・日本○(ゼロ)年」(昭和三十三年七月號及び八月號)という題で發表されたのが機縁となつて、この本が出ることになった。雑誌に發表されたのは私が去年、ソ連からヨーロッパへ廻っていた留守中のことで、拔萃は同誌の編集部がそれを行ってくれた。その既發表の分(約二百五十枚)だけでは單行本としては紙數がたりないので、この本で初めて發表される部分が新たに追加され、合計約六百五十枚となったが、もとの日記(新聞切拔き等を入れて約三千枚)からすると、これでもまだ一部分ということになる。この追加拔萃は、自分でそれに當るのはいかにも照れ臭いので、友人の吉川誠一君にして貰った。記録的興味をめやすとしていて、もとの日記の大部分をしめている文學的な感想のたぐいは被じて省かれている。雑誌にすでに出ていて、この本で拔けている部分があるのも、そうした同君の意圖からである。
一、この日記は發表ということを全く考えないで書かれたものだと私自身が言つては、いささか氣の咎めるところがある。しかし後日の發表をはつきりと頭において書いたものだと言つても、うそになる。あのときの狀況では、せつせとこうしたものを書いたところで、第一それがはたして保存されるかどうか、そのこと自體が疑問であつた。それはすでに私にとつて經験ずみのことだつたからである。微用で從軍した私は、ビルマ戦線でせつせと書きためた日記を、ラングーンに入る直前戦車隊に包囲され、ジャングルのなかを彷徨した際、虎の子のように大事にしていた日記だのに、一種の胸騒狀態から紛失してしまつた。そうしたことがこの日記についても私考えられるとしていた。一方、何かのことから憲兵や特高に沒收されるおそれもなきにしもあらずとして、みずから伏字にしてあるところもある。
一、發表に際しては舊カナ使いが新カナに直された。またたとえば「所謂」が「いわゆる」というように、漢字がカナに直されたが、もとの日記の文章そのものには、いささかも改選のは加えられていない。私自身、今から見ると顔をあからめずには謎めないところがあるが、しかし、そういう私だつたのだから仕方がない。なおそのこととは意味が違うが、私は文士の心構えとして、暗喩を旨とすべきだと考えている者で、なまの私的な日記の發表は慎しんだ方がいいと、自分ではずっとそう考えて、っとそう考えていた。しかし、いつかは公開されるかもしれないのだと思うと、こういう種類の日記はむしろ私の生きているうちに公開して、自分でそれに責任を持った方が、いいと考え直したのである。
一、この日記のなかに出てくる私の舊友秋山寵三君が去年の春、出版社をはじめることになり、私の日記を全部出したいと言ってきた。私が戰爭中、ひそかに日記を書いていたのを同君は知っていたからである。とにかく積みかえしてみようと、書庫の奥にしまってあつた日記を妻に出させた。それが、その頃「昭和文學盛衰史」の出版のことで私の家にたえず見えていた星野輝彦君の目にとまり、そして『文藝春秋』編集部へと傳わつたことが、同誌への發表という結果になった。『文藝春秋』へ最初に發表され關係で、同社からここに單行本を出すことになつた。本になるまでの陰の盡力に對して星野君に感謝すると同時に、この拔萃の出版を誤解してくれた秋山君の寛容をも感謝する。(「あとがき」より)