2005年10月、思潮社から刊行された水無田気流(1970~)の第1詩集。第11回中原中也賞受賞作品。附録栞は福間健二「世界があって、君がいる」。
名づけ得ぬものは、名指されたものよりもよほど恐ろしい。安部公房は(正確には、トーマス・マンを引いてだが)言う。ライオンは名づけられる以前、悪鬼のような恐るべき「超自然的存在」であった。だが、ライオンと名前を与えられたとたん、人間の征服可能な単なる野生動物へと「変換」せしめられたのだ、と。有り体に言えば、私の関心は常に、この「変換」の際消去されたものにある。それはたとえば、自然の生成力(ピュシス)が算定可能な自然像(ナトウラ)へ「変換」された瞬間に、「余剰」として滴り落ちた種類のものである。
さて今日詩は、いや文学や哲学といった、「名づけ」をめぐる攻防戦それ自体に生命線をもつ領域は、果たしてどのような「ライオン」であるのか。鉄の檻の中で繁殖するライオンが多数派を占めるのであれば、そこに魂(アニマ)は宿っているのか。たしかにそれらは一見、「マガイモノ」「ニセモノ」「シミュラークル」として片付けられそうな代物である。けれども、事態はそれほど単純ではない。
今日的趨勢においては、魂(アニマ)すらも(いや、魂(アニマ)だからこそ)消費されていくのである。それは、ホンモノ/ニセモノの境界線をも軽々と越境する。「かけがえのないもの」が、その「かけがえのなさ」ゆえに、かえって一層「商品価値」を付与されてしまう(そして急速な陳腐化(ラピッド・オブソレッセンス)がなされていく)。世界はこの意味の書き換えの暴力性――それはすさまじい強度と速度を誇るのだが――によって、日々侵食され、同時に恍惚としている。少なくとも、私にはそう見える。
この状況下、現時点での世界の強度と速度を正確に映し出すこと、それがこの詩集の目標であった。それは恐らく、いや、確実に無謀な試みである。どうぞご笑覧いただきたい。
(「あとがき」より)
目次
phase1:lifehistoricalparade
- 電球体
- ライフ・ヒストリー
- ヒナタ計
- 午前四時の自動販売機
- 非-対称(ア・シンメトリー)
- 三月道
- マージナル
phase2:plasticcargocult
- シーラカンス日和
- 金魚日
- 落下水
- 間奏曲
- 名前
- 鳥唄
- 七番目のセイレーン
- 八月三十一日
phase3:hypersonicstoryteller
- 音速平和
- オンリツ
- 東京水分
- 重奏帯
- 水宴
- ひなたみず
- マージナル/エターナル
あとがき