1978年2月、国文社から刊行された伊良波盛男(1942~)の第4詩集。
伊良波盛男とはまったく不思議な縁でつき合うようになった。七六年に国文社から出た彼の詩集『眩暈』を手にしたとき、ぼくは鈴木志郎康、清水昶の二氏と「現代詩手帖」の「鼎談時評」をやっていた。ぼくはこの散文詩集『眩暈』につよく刺激されて伊良波盛男を明らかに推した。それからまもなく(こういうよろこばしい偶然はときさにしばしば起るものである)「新劇」で「日本風景論」シリーズをはじめるので、その第一回に「港町」について二百枚書けと言ってきた。こうして七七年の一月末に、石垣島、宮古島、那覇と沖縄本島南部へはじめて行った。伊良波盛男には宮古島の平良(ひらら)のレストランから電話すると、自分の生まれた池間島(宮古島の北方の離れ島)へもぜひ行ってくれと言った。こうしてぼくは何の予備知識もなく、狩俣から黄金丸という船で、池間島へ渡った。この島へ行ったことはその後のぼく自身を変えてしまった、とさえ言いたい気がしている。
ここでのことは前出の「港町」論や、七七年十二月刊行の詩集『next』」に書きこんだとおりである。
ぼくは自分の詩やものの考え方に一つの転機が到来するのをひそかに待っていた。そこに『眩暈』と池間島が向うからやってきたのである。
宮古から那覇へ戻って、そこで伊良波盛男にはじめて会った。彼はもう一人の宮古出身の詩人、最近『那覇午前零時』を出した松原敏夫とやってきた。その夜のことも「新劇」のルポルタージュに書いてある。小柄で寡黙な、しかし頭のよさそうな、意志もつよそうな三十代半ばの詩人だった。
八月下旬、またぼくは宮古と池間島の何ものかの声にひかれて、那覇へ飛び、南西航空のプロペラ機に乗って、アダンとユウナと、フクギのつやつやと光り輝く島へ行った。珊瑚礁は盛夏の太陽に焼きつけられて、静かにそこにあった。今度は宮古と池間、そして伊良部島だけで六日滞在した。
那覇でふたたび会った伊良波氏は、近く詩集を出すので、何か書けと言った。まもなくこの(今度も散文詩集の)『嘔吐』の原稿がどさりと送られてきた。
一読、再読した。南島のボードレールは健在だった。
ここには叩きつけるように投げ出された絶望と呪詛と愛憎と滑稽がある。それは南島の熱気と高温を吸収して濃厚そのものである。何のスリルもない、過度も過剰もない、新しい星菫派風の、はかなげな、朧ろげな、適温適湿のエア・コンディション時代の詩に対する、はっきりとしたアンチテーゼとしての詩がここにはある。
南島のボードレール、彼は絶望し、呻吟し、ぎりぎりと女を妄想し、自らを泥と反吐にまみれた滑稽劇の主人公として放り出すことを恐れない。
(「南島のボードレール/飯島耕一」より)
目次
Ⅰ
- 秋の恋歌
- 闇の関係
- 禁欲の寺
- 男と化け猫
- 病院の待合室で
- 昼下がりの夢の記述
- 愁訴の朝
- 呪われた余白
Ⅱ
- 目覚めの呪縛と祈り
- 私闘
- 夜の沼
- 巫術
- 嘔吐
- 中陰の恍惚
- 十五夜の満月の下で
- 二人の俺
- 双頭の男
- 眠りから目覚めるまで
Ⅲ
- 敗遁の唄
- 敗訴の闘士
- 悲恨の卍
- 私怨の啞者
- 私怨の盲者
- 呪いには呪いの神剣を
Ⅳ
Ⅴ
- 神様に食べられた小豚