1995年6月、詩学社から刊行された天城奎二(1930~)の第1詩集。装幀は浜田正二。
天城奎二が私たちの「火牛」に参加したのは一九八八(昭和六三)年九月で、その最初の作品は「使徒行法」(「火牛」第二十冊)であった。参加した縁というのは、天城が同人村岡空と「詩学」研究会以来の旧知で、木原孝一を中心とした詩誌「架橋」でも仲間であったということによっている。「架橋」はほかに平井照敏、小島信一、宗昇、広部英一、角田清文らも扱っていた誌で、木原の死をもって終り、一九八〇(昭和五五)年七月、「終刊号、木原孝一追悼号」を出している。天城はこの号にも長い「鎮魂歌」を書いているが、これら「詩学」「架橋」等において夙に特異な存在であったらしく、村岡にしても天城を語る時にはその口調に一種畏敬の響きがあったことを、私は記憶している。嵯峨信之氏も天城を「幻の大詩人」と評したことがあったそうである。思うに、その寡作、自らを売ろうとしない詩壇嫌い、遠地に孤高を守っている姿を評したのであろう。
たしかに、その詩のヘルダーリン的な格調の高さ、恐るべき博識による目眩く語彙、そこに透視される求道者的詩人像からは、「幻の」と冠したくなるミステリアスな濠気が漂って来る。
天城奎二の詩は、古典的叙事詩のように息が長く、しかも音楽的なポエム・ストーリーとしての情調と美感をもつ。その後者の点では、「荒地」派詩人の初期詩篇に通ずるものがある。たとえば、「幻影はわれわれに何を与えるのか。/何によって、何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか。/橋の下のブロンドのながれ、/すべてはながれ、われわれの腸に死はながれる。」(北村太郎「センチメンタル・ジャーニー」)というような詩にである。
しかし、天城奎二は「荒地」派詩人より一世代遅く生まれたし、「荒地」にまなんだかも知れないが、その亜流にはならなかった。なぜなら、「荒地」の詩人たちの詩は、つまるところ「苦悩の内閉的な抒情」に行きつくしかなかったが、天城の場合には、開かれた社会の場での「身体的実践」による矛盾と苦痛を絶えずとり込みながら、詩を書きつづけたからである。鮎川信夫らがT・S・エリオットの伝統主義に向って、いつしか保守安定思想に傾いていった時、天城はまだ「神とマルクス」の二律背反の谷間でもがき苦しんでいた。比喩的に言うのだが、それはマックス・ピカートの「”構造化された”逃走の現代」において、何ものからも「逃走しない」と決意した人の苦しげな姿に見える。
その詩は初期においては、「玉葱」「冬薔薇」「トランペット」のように、「物の形象の本質的把握」を志向し、むしろリルケ的とも見えるが、やがて「幻の革命のための哀歌」「すべての日々は憂いのみ」以下の挫折と矛盾に苦しむ詩篇となる。「僕たち、遣わされた者の幻の闘争」、いかにも悲痛な象徴的言葉である。「調書」はそういうなかでの、「資源環境問題と生活様式を神学に結びつける」証跡を示す傑作であろう。
「残されし日々の<セリオーソ>」から「晩期のフーガ」にいたる最近の諸作については、私は言葉を失う。彼の永かった闘いに、さらに死との闘いが加わったのである。しかし、この毅然たる精神はなお強さと輝きを失ってはいない。
(「跋/鎗田清太郎」より)
目次
- 魂の飢えの頌歌
- 書かれざる手紙
- 囚人
- 密使
- ShelteredLife
- 幻の革命のための哀歌
- すべての日々は憂いのみ
- 聖会話
- 「雨の樹」を聴く
- 調書
- トランペット
- 玉葱
- 冬薔薇
- 高雅にして感傷的な雅歌
- 受胎告知
- 四行詩抄
- ゆきあかり
- 無情
- 読む
- 眼帯
- 乾薔薇
- 冬林檎
- 静物
- 残されし日々の<セリオーソ>
- まりあからの手紙
- 審問
- 聖母哀傷による六つの変奏
- 薔薇讃仰
- 晩期のフーガ
注釈
跋
あとがき