西津軽へ 藤田晴央詩集

f:id:bookface:20210317232432j:plain

 1987年4月、書肆山田から刊行された藤田晴央(1951~)の第3詩集。装幀は三嶋典東。

 

 あれは1978年の夏だった。私は、詩友・清水昶と共に、津軽半島の西の奥処にある平滝沼を訪れていた。こんな処にこんな沼が、私はそこにその地方の、人には見せない真顔を見た。敬愛する詩人の後ろ姿が、愛した女たちの後ろ姿となるように、人々の影が浮かんでは消え、深くオーバーラップしながら葦の揺らぎに融けていく。沼の輪郭はおぼろになり、地平が広がったり移っていったりするように感じられる。詩が生まれた。故郷を離れ東京人となって十年になろうとしていた。漸く私は郷里に対する位置と姿勢を摑んだのだ。それを説明するのは難しいが、津軽を透して<幻想>を視るということになろうか。
 こうして始まった津軽シリーズを書くことは、長い時間と広く多様な空間が交錯するファンタジックな体験だった。津軽をモチーフとしながら、世界のどこかであるような幻想の領域。誰もが心のどこかに抱いている個人史の熱い呻きが息づくワンダーランド。しかし、それはなかなか困難な手仕事で、一作書くと、暫く次は書けなかった。何年たっても編数が増えないのである。そのため当初はこの津軽シリーズを詩集にまとめることなど考えになかった。ただ自分が詩を書く行為の芯になってくれればそれでいいと思っていた。
 それを、こうして詩集にまとめる方向に押し出してくれたのは、三嶋典東である。ある日、「(津軽シリーズを)数など少くてもいいから<形>にしろ」という電話を頂いた。刺激的な言葉だった。作品数が一定量に足りたら一冊の詩集に編むという漠然たるそれまでの姿勢を叱られたようなものだった。全ての芸術は、作品の内実から始まり<形>に到ってこそ作家の仕事は前進するというアーティスト・典東さんの啓示であった。
 同じ頃、典東さんが函館ラサール高校を出ていることを知った。私は弘前高校である。東京から遠望するとその位置関係はとても魅力的だった。北の函館と津軽の南にある弘前とで津軽海峡津軽平野を抱きこんだ感じになるのである。そして時間。私は、ほぼ同時期に海をへだてて高校生活(それも二人ともオチコボレの)を送っていた少年が、二十年後に一つの本を作るということに心を弾ませた。この人とならこれまでにない新鮮な人形〉を創れると確信した。
 '86年の晩秋、典東さんはスケッチブック片手に津軽を旅した。そして素晴らしい絵をもち帰った。それは、『雨』『風』(岩崎美術社)の作者らしく、細やかな視線で風景や物体をとらえ、ビビッドな線で描いた最上の作品群だった。特に詩作品への距離のとり方に私は唸った。いや、解説は不要だ。ご覧の通りである。典東さん、ありがとう。
 この、今も高校生気分の二人の仕事を洒落た本の形にまとめてくれたのが書肆山田の鈴木一民さん、大泉史世さんである。お二人に感謝。
 最後に、かつて平滝沼を教えてくれ、今回は典東さんを津軽の隅々まで案内してくれた西津軽郡木造町在住の我が友・長谷川正人に感謝の意を表して、「あとがき」を終える。
(「あとがき」より) 

 
目次

あとがき


NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索