飛礫の歌 新谷ひろし句集

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 1964年2月、青森俳句会から刊行された新谷ひろし(1930~2020)の第1句集。暖鳥文庫5。

 

 青森俳句会機関誌で同人誌の「暖鳥」を編集してからまもなく十年になろうとしている。その間いろんなことがあったことはいうまでせないが、この一月号が二百号であった。恰度そのとき、この小句集が暖鳥文庫の一冊として加えられることになったのはことのほか嬉しい。
 ところが、いざ印刷の方からすぐ原稿をおろすよう言われてハタと困った。発表しうる自信作はもともとないのであるが、これほど作品として未完成であり、ひとりよがりで、ふらついている自分の老大な作品ノオトを手にしたとき、ぼくはどの句をえらびどの句を集録すべきかほんとうに思い惑った。しかしぼくはぼくなりの考え方から、作句ノオトまとめておくこともあながちマイナスでないと考えていたので、さきに自家版の掌篇句集としてまとめておいた「鏡の蝶」(昭和22年~25年春までの中学・高校時代の作品集。昭和33年4月刊)と「美貌妻」(昭和33年9月~12月までの句日記四八○余句収録。昭和34年4月刊)の作品は除外することにし、さらにあざみ同人俳句集「青芦」第一集、第二集(各五十句)および森の会アンソロジー雪像」「修羅おとし」「氷塔」(各五十句)に収められている句なども一応除いて、ここに五七八句をえらんでみた。
 ところで、現在のぼくは過去の作品を追うているべきではないし、この句集のような作品では結局余技でなかったかと自覚せざるを得ない。
 第一、ぼくは余技というその態度については否定しないし、ぼく自信それを楽しみたいと思うときもある。また現に楽しんでいる筈だからぼくの俳句は余技ということになる。しかし余技は余技でも芸は下手では困る。その点でぼくの余技は芸の域に達していない。その理由ははっきりしている。すなわち、ぼくは観念では俳句は文学だと思いながら、文学の何たるかを知らず、俳句の文学たる所以も知らず、ただ俳句なるものを作り、その作る場合は、ぼくの息ぬき(カタルシスという言葉もあるらしいが)と心得て作っているにすぎない。そうした矛盾が余技の道をも究め得ない理由である。今後、ぼくに課せられた問題はそうした生半可な態度を徹底的に破壊することにある。
 ぼくは非常に安易な古くさい考え方だが「文学は一人でするもの」という信念をもっている。俳句の歴史を見るとそれは逆行した考え方かも知れない。俳句には運座という楽しい雰囲気の大衆の世界があり、また連句という俳句本来の野放図な明るさのあった時代も経てきている。しかし、それでもぼくは文学は孤独でなければ駄目だという考えを近年ますます強くしている。将来の自分については予測できないが、現在のぼくは孤独に徹するなど到底できないし、それに系累も多い。円満な家庭づくりの方がいまのぼくに課せられた俳句づくりより重い仕事だという考え方もある。よって、いま、この小句集をまとめたことはぼくの俳句生活にとっては記念すべきことになるかも知れない。
 以上、後記ならぬ後記になったが、これまで永らくお世話になった多くの先達および同友の方々にこの機会にさらに一層の御指導御鞭撻をおねがいしたく思うし、さらにこの小句集のために、わざわざ序文をお寄せいただいたあざみ主宰の河野南畦先生、句集の刊行を強力に推進して下さった吹田孤蓬先生、身に余る解説で新谷ひろしを解剖してくれた成田千空氏ならびに本句集はもちろんのこと、いつも暖鳥の表紙を飾ってくれている小野忠明先生に厚く御礼申しあげたい。
(「著者後記」より)

 

 


目次

序 河野南畦

  • 昭和二十五年
  • 昭和二十六年
  • 昭和二十七年
  • 昭和二十八年
  • 昭和二十九年
  • 昭和三十年
  • 昭和三十一年
  • 昭和三十二年
  • 昭和三十三年
  • 昭和三十四年
  • 昭和三十五年
  • 昭和三十六年
  • 昭和三十七年

解説 成田千空
著者後記

 

関連リンク
新谷ひろし - 青森県立図書館
 

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