1959年6月、東洋文化協会から刊行された伊藤永之介(1903~1959)の短編小説集。
この本の中の「權犬」という作品は、いつも農村ばかり書いている私としては例外のものであるが、昨今南極観測隊が脚光を浴びているからと言って取材したものではない。
これは今の南極観測が始まる数年前に書いたもので、その動機は、探険隊長の白瀬中尉が、私と同郷の人であるということからであった。
観測隊が、氷原に権犬を置き去りにして来たということが、世間の話題になっているようだが、この白瀬中尉の探険隊もやはり權犬を置き去りにして来た。そのことがこの作品のポイントになっている。
他の五つの作品は、いずれも農村を描いている。「田植歌」みたいな戦争によるゆがめられた男女関係のケースは、いたるところにあった。その典型的な様相をとらえようとした。
「笛吹峠」のような山村の封建的な風習は、今でも残存しているのではなかろうか。これは戦後間もなく、私が実際に、おどろきをもって見聞したところのものである。
「三太郎」は、これもある田舎町の実際の風俗図である。
これらに反して、「なつかしい山河」は、全然のフイクションである。このままの事実は、どこにもなかったろう。
しかしながら、息子たちを次々と戦場に持って行かれて痩せ細る思いの年月を送った母親は、いたるところにあったにちがいない。私は、故郷の秋田県の田舎に疎開していたとき、そういう一人の哀れな母親を見て、胸打たれた。その感動からこの作品の構想が生れた。
戦後の作品で、私がもっとも誰かに読んでもらえたらと思っているのは、このなつかしい山河である。
(「あとがき」より)
目次
- 橇犬
- みぞれ降る夜
- 田植歌
- 笛吹峠
- 三太郎
- なつかしい山河
あとがき