1983年6月、国文社から刊行された西岡光秋(1934~2016)の第5詩集。装幀は河原宏治。著者は大阪市生まれ、刊行時の住所は練馬区東大泉。
この詩集は、私の第五詩集にあたる。また、はじめての散文詩集でもある。
なぜ散文詩を書くのか、という問いを、これら詩編に手を染めてきた昭和四十三年から今日まで、ときに、私は、私自身にいくども問いかけたものであった。なぜなら、散文詩誕生の裏面には、散文詩の詩型をとらなければならなかった詩的根拠の必然性が当然横たわっていなければならないからだ。
振り返って考えてみると、表現の一手段として詩をえらんだその時点から、私は、私の内面に蟠踞しているさまざまな矛盾、挫折、そして苛酷な現実の深層に眼をあててきた。それがいま、土の匂いを手ぐり寄せ、多彩な人間臭を招来することとなった。と同時に、ここに至っていえることは、一貫して私が詩に投げかけてきたもの、あるいは私の詩の底流をなしていると思われるのは、怨嗟にも似た人間の心の傷みである。
ところで、この散文詩集の大半は、私と土とのかかわり、その来歴によって成り立っているといってもよいだろう。私のからだのなかには、草深い安芸の国の百姓の血がながれている。祖先の百姓たちがュッュッと狭い田畑を耕してきたように、私もまたちいさな桝目に飽きることなく散文詩を紡いできた。
散文詩についての明快な定義をまだ知ることがないが、行分けの詩にしても散文詩にしても、両者に通じていえることは、魂の律動が作品全体から感得できるかどうかであろう。詩は、いかなる対象を取り上げても、魂の微妙な律動がその一行一行に投影されていなければならない。散文詩においては、なおさらのこと、その律動を忘れることができない。魂の律動と手を結ぶことによってのみ、詩は詩としての真の役割を果たしうると思うのである。
この散文詩集で詩におけるその約束事が守られているかどうか、私は賭けに対するひそかな戦慄を感じているのである。
(「あとがき」より)
目次
- 沢蟹の来歴
- 背信抄
- 菊のわかれ
- 鬼灯
- 落鮎
- 夏の怯え
- みみず塚
- 木戸銭
- 茶碗
- 訪問者
- 祭りの系譜
- 深爪
- 誤植
- 牙
- 蝶道
- 芯
- 共犯者
- 河鹿抄
- 瘤
- 鳥
- 深い眠り
西岡光秋と散文詩 赤石信久
あとがき