1974年8月、創文社から刊行された角田清文の第4詩集。画像は裸本。
日本語助詞論とは、すなわち日本語女死論であり、にっぽんのひとりの女の死の物語なのである。わたしは日本語のおろかな職人として日本語の細部への丹念さのみに賭けたのである。わたしの自負もおろかさも、この「のみ」という限定助詞にあってほかにはない。唐突に聞えるかもしれないが、これらの作品群の主題となった日本語のひらがなのひとつひとつは、いわば、わたしなりの季語であったのである。季語に傑けられぬ想像力の恣意性などをわたしはまったく信じていないし関心もない。季語とは誰かがいみじくもいったように季もにの季感(ひいては観念や思想)の表出であるというより、語そのものであり、ものとしての語であったのである。
詩人の運命は予測しがたい。わたしがこのような結末をむかえようとは、かって、おもってもみなかったのだ。おそらく、これからは、一行の詩も書けないかもしれぬ。わたしの盟友平井照敏は実作者として俳句へ越境した。無能なわたしは越境もできずに、このまま、定型(カトリシズムといいかえてもよい)へのあこがれをいだいたまま、かなしみにうちひしがれて、のたれ死にするかもしれぬ。しかし、不幸や苦悩があればこそ、ボンヌフォワがある書簡でのべているように、詩はあるのだ、詩はそれらのものによって、ジュスティフィエ(正当化)されるのだ。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
―てにをはの夢(ゆめ)みし昏(く)れん女(ひと)へ―
- <て>の女
- <に>の女
- <を>の女
- <は>の女
- <の>の女
- <ゆ>の女
- <め>の女
- <み>の女
- <し>の女
- <く>の女
- <れ>の女
- <ん>の女
- <ひ>の女
- <と>の女
- <へ>の女
- 句読点の女
- 濁点の女
- <意味>の女
- 非婚の女
- <母>の女
Ⅱ
- Maraia Magdalena
- どちりなきりしたん
あとがき