2002年11月、私家版として刊行された真尾倍弘(1918~2001)の遺稿詩集。著者は秩父市生まれ。カバーは佐藤卓布。
この詩集の原稿は、夫倍弘の死後、本箱を整理していて見付けたものです。本箱の中は、平成十二年、酸素吸入をしながらの夫と共に、伊東(静岡県)から長男の住む札幌に移ったときのままになっていました。雑多な本の下にあった汚れた紙袋から、思いがけなく夫らしい几帳面な細かい字の詩稿が出てきたのです。原稿用紙を貼り合わせて字詰なども整えてありました。生涯、夫の脳裏から離れなかった戦争の話でした。このような文字が書けたのは、伊東にいた早い頃だったはずです。手が震えて字が書けなくなり、ずっと焦れったがっていました。もう少し作品を書き足すつもりだったのでしょうと思います。やがて箸も持てなくなり寝返りも打てない状態で、人工呼吸器をつけたりする日々になりました。
たとえ、作品が詩集を編むのに足りなくても、もっと早く私に話していてくれたら、生きているうちに活字にする相談もできたのにと、仏壇の前で恨めしくつぶやいています。
召集令状を持って、東京・中野の私の実家へきた日の、倍弘の姿が眼に浮かびます。ツンツルテンの剣道袴にくたびれた単衣、昭和十七年七月でした。赤紙、と言われますが、それはきれいな挑色だったのです。私は前年から腹膜炎を患って奥の座敷でやすんでいましたが、その日は母に起こされて茶の間へ行きました。彼は、私の同人雑誌の仲間二、三人が、同郷だからといって連れてきた人です。私は、いつも茶の間の賑わいを奥でかすかに聞いていました。お相手は私の母でした。そのうち、妙なことを聞かされました。八木節の上手な彼の父親がお経の一節を覚えて、僧の足りない戦時下のお寺で重宝がられているという話です。彼が冗談まじりでしゃべったのを私の母が早トチリして、彼を寺の息子だと思い込んでしまったのです。私の母は熱心な仏教信者でした。以来、彼を特別扱いするようになりました。真尾(シンのオッポ)という変な名字もそれらしさを手つだったのかもしれません。
召集令状を見てうろたえた母は、ヤミの材料で天ぷらや煮物をつくり、彼を精いっぱいもてなしました。輜重兵ということなので”馬に蹴られなさんな”と、母は泣かんばかりに言いながら見送りました。
たびたび届いた軍事郵便では、酒保でビールを飲んでいる、などという暢気そうなのもありました。現実は、そのころ耳のうしろを弾丸がかすめた傷を負っていたのでした。
空襲が激しくなって私は新潟へ疎開しましたが、彼も北シナを転々としていたようでした。馬ではなくて、舟艇部隊に配属されたということです。二十年になってからは便りもなく、私の方も中野の家が建物強制疎開で取り壊しと決まり、家族全員が急ぎ新潟へ移りました。
あとから聞いた話では、河南作戦という激戦にも加わったそうです。天津で敗戦を迎えて捕虜になり使役されたといいます。足の悪い私は雪国の生活を恐れてひとりで東京へ戻りました。二十年十月、彼は持ち物すべてを奪われて解放され、佐世保港でにぎり飯一つをもらって郷里秩父へ辿り着いたようです。新潟の母が受け取った復員の知らせが東京へ転送されてきました。
母が少し具合が悪いというので見舞いに行ったとき、彼もまもなく新潟へやってきました。二十一年のお正月でした。その年は大雪で、屋根の上が道になり、雪の階段を下りて玄関へ入る有様でした。彼は雪の中を犬ころのように走り回ってよろこんでいました。配給の鯖の味噌汁をうまい、うまいと何杯もお代りをしている彼のために、母がヤミ商人に頼んで酒一升を手に入れたのです。それを一人で一滴残さず平げた彼は、もっと酔いたいとばかり障子につかまって逆立ちをしました。そこへ従姉が遊びにきました。挨拶のつもりか、彼はいきなりポッポッポ、鳩ポッポォと歌い出したのです。以来、従姉は彼をポッポちゃんと呼ぶようになりました。私はまだ彼が詩を書くことを知りませんでしたが、大変な呑ン兵衛だとは分りました。
結婚後、中野区新井町の独身者用アパートに、炊事をしない約束で住み始めた二十一年八月、夫は気管支喘息を発病しました。往診を頼んだ内科医が病名を告げると「俺はそんな年寄りじみた病気ではないゾ、単なる気管支炎だ」と眼を剥きました。
その秋、彼は近くにいた友人らと同人雑誌「文芸塔」を出して集まり、しょっちゅう酔っぱらっていました。桃源社という出版社に職を得ましたが三か月で倒産、創業まもない前田出版社へ移りました。同じ頃、浦和にいらした北川冬彦さんとのおつき合いが始まり、私もお宅へ伺って奥様にもお世話になりました。北川さんと、外村繁、上林暁、伊藤整の諸氏が創刊された文芸誌「文壇」の編集をお引き受けした彼は、気負った後記を書いていました。
二十二年一月三十一日、ゼネストを予告された前日です。アパートを追われた私たちは、あたふたと阿佐ヶ谷の外村さんのお宅へ引っ越しました。夫が強引に頼み込んだのです。外村さんは、きっとあのギョロ眼に押し切られたのでしょう。まだ何も御存知なかった奥様は、突然現われた間借り人を笑顔で迎えて下さいました。慌ててお部屋を片付けた奥様は、私のおなかを見て、さァ、どうぞどうぞ。と割烹前掛の裾で手を拭いていらっしゃいました。五月に長女を生んだ私は、敗戦直後のきびしい食糧難の中、御一家のご好意につつまれて暮らしました。ところが、二十三年二月十八日の朝、奥様が脳軟化症で倒れられたのです。そして、同じ月に私の父が急逝しました。寺の息子と信じた人が貧乏で呑ン兵衛と知った母は、外聞が悪いから、生地である新潟へは顔を出すな、という手紙をよこしました。このとき、私は自分の甘えを捨てようと思いました。
さらに、夫の新しい勤め先も倒産、彼は、どうにもならない境遇を逆手に取って「四面讃歌」という詩を書きました。それを見付けた外村さんは「このままでいいんだよ」と言って下さいました。しかし、執筆中の外村さんのうしろが奥様の病床なのです。あまりの心苦しさに、とりあえず三か月の約束で、練馬の諏訪優さんのお宅へ寄せて頂くことにしました。その日まで、外村さんご夫妻の不機嫌なお顔は一度も見た覚えがありません。
やがて、夫が戦地でもらった慰問袋の贈り主を頼って、親子三人で土浦の在へ移りました。彼が、その娘さんに私を妹だと言ったのが祟り、綿畑の隅しか貸していただけませんでした。古い竹や板きれを貰い集めた夫は、そこへ一日で畳二枚ほどの掘立小屋を作りました。翌日、突風のために小麦藁の屋根が飛んで空が見えましたが、私が中野で習っていた長唄の譜本を片端から貼り付けてしのぎました。赤い業平格子のそれは、場違いの華やかさでした。夫は、東京で作って一度も使えなかった立派な標札を、小屋の延戸につけました。そして、道から小屋までの畑の間に「この先に雨月荘あり・真尾」という立て札を幾つも地面に挿すんだと言います。私はただ口をあけて声をのみました。
ある日、夫の持病となった喘息が悪化しました。近くの畑にいたおばあさんが「気違いナスがよく効くよ」と教えて一個届けてくれたのです。土瓶でよく煎じ、一か月ぐらいかけて少しずつ飲みなさい、とのことでした。夫はそんな声には耳をかさず、ぐいっと一気に飲み干しました。早く治したいと焦ったのでしょうが、とたんに倒れてしまいました。十日ほどは意識もうろうのまま「印刷屋へ入れなくちゃ」などとウワゴトを言いつづけました。強引で頑固一徹が夫の本性でした。
阿佐ヶ谷時代の知人から雨月荘へ速達が届きました。平(たいら)という所へ来ないか、と書かれています。二十四年三月でした。全く見知らぬ町ですが、私たちは飛び付く思いで土浦をあとにしました。大阪へ移るという知人の家は、沼のほとりの傾いたボート小屋でした。四日間一緒に住んで、一つ鍋からのおじやをご馳走になり、知人は私たちに炭一俵を残して発って行かれました。じつは、そこもすでに立ち退きを迫られていたのだそうですが、私の妊婦姿を見た家主が”しばらくは……”。と許してくれたのでした。
蒼い顔をした夫は、入り口に「現代詩研究会」という小さな看板を掲げ、チラシの裏などに会の名と住所を書いて町の辻々に貼りました。三月二十六日に七か月で産んだ次女を、一か月後に肺炎で亡くしました。ちょうどその日に、夫は広告で応募した”いわき民報社”というところに就職が決まりました。
会の名を知った、近くの高校生や炭鉱夫、電力会社の青年社員などが遊びにきてくれるようになりました。そのころ、次女の死亡までの医療費を催促されていました。医師のおつれ合いが、夫のいる時間をねらって毎日やってくるのです。がっちりとした大男でした。夫の給料だけでは間に合いません。仕立物の内職をみつけた私は、ようやく返済し終えた夜から高熱で寝込んでしまいました。翌日、枕元に坐って、ポケットから産み立ての卵を幾つも出して励ましてくれた青年がいました。私はなぜか失礼にもその人をドラ(息子)と呼んでいたようです。ご実家は農家で、もちろん文学青年です。その優しいお顔は今でもはっきり思い出します。
二十四年九月、夫は会員制のガリ版刷り「氾濫」(詩と詩論)準備号を出しました。現代詩研究会発行です。それは夫の夢でした。十一月には準備二号を出しています。翌二十五年に、夫は印刷所へ頼んで「石城文化」という小冊子を千部作りました。私も広告取りや取材を手伝いました。同じ年に、夫は北川冬彦さん主宰の詩誌「時間」の同人として作品を発表するようになりました。しかし、喘息は少しも快くなりません。新聞社も一年半ほどで退職しました。
夫は「ヒーコ(喘息発作)で飲めないときは飲まない。その代り、飲めるときはテコテン飲みだ」と言います。忘れもしません。二十五年十一月三日、若いお客が七、八人集まっていました。夫ののどは無事安泰。出産予定一か月前の私は、歩いて五分ほどの酒屋へ十回通いました。四合瓶を持っては借りに行ったのです。十一回目のとき、待ちかねたか、千鳥足の夫が現われました。顔から火の出る思いで店を出た私は、瓶をかかえて危っかしく揺れる夫のうしろ姿を追いました。十二月に長男がうまれましたが、夫は東京や名古屋へ職探しに行き、私は内職に励みました。東京時代に私の着物を全部手離し、父の形見の腕時計を米に替えたのを、夫は内心気にしていたのでしょうか。あの時計の代りを買うまでは、と言っていました。住む部屋も定まらず、丹後沢、大町、六人町と移ったとき、夫は名古屋から血を吐きながら戻ってきました。初感染の肺結核が悪化したのでした。やむなく医療保護をうける手続きをして県立大野病院へ送りました。昭和二十七年です。「俺は施療患者か」と嘆きましたが、親子三人の暮らしがやっとの私にはかんべんしてもらうよりありません。夫がよく口にしていた、中国語の”没法子(メイファーズ)”です。
二十八年に胸郭成形手術を受けるまで、夫はあまりおとなしい患者ではなかったようです。手先の器用な彼は、重症患者の枕辺の窓に、白い紙で骸骨を切り抜いて貼り付けたりする、いたずら者でした。その一方で、療友の画家、佐藤卓布さんとガリ版刷りの院内誌「防風」を出しています。二度目の手術で合計七本の肋骨を切除。手術後、喘息の重発作がつづきました。意識もなく、口から血を噴き上げている夫を前に、医師は絶望だと宣告したのです。私は夢中で医師にすがりついて輸血を頼みました。私の血液は夫と同じA型です、と。医師は「ショックで死期が早まっても知りませんよ」と吐き捨てるように言って、私から採血した一○○CCを夫の細い腕に入れました。その夜、秩父から呼んだ夫の兄が「棺桶を買わねばなぁ」と言ったとき”きんぷくりんの、十二条”という途切れ途切れの声が聞こえました。病人のウワゴトでした。父親のお経にでもあった言葉でしょうか。あとで、川の向こうに黄色い花が見えた、とも言いました。いまで言う臨死体験かもしれません。
夫は昭和二十九年四月に結核だけは回復して退院しました。三十年には平の詩誌に寄稿しています。そして、自分で印刷したい、と突飛なことを言い出しました。夫の姉から借金して手動印刷機を買ったのです。足りない活字を借りて、九月には待望の詩誌「氾濫」一号を、十月には二号を発行しました。藁屋根の軒先に、厚紙で「氾濫社」と切り抜いて貼った、板きれの看板をかけて得意がっていました。三十二年三月に「氾濫」第五号を出すころには夫の夢はさらにふくらみ、郷土雑誌を作ることにまで飛躍しました。三十二年六月、二十ページ、定価三十円の「月刊いわき」創刊号ができました。おカネもないのに、二千円が当るクイズまでつけたのでした。三十三年に第五号を出したあと、思いがけなく新聞の全国版に写真入りで紹介され、ヒョンな結果が生まれました。台所の火の車と喘息は相変らずです。雑誌も、月刊どころか休み休みの青息吐息でした。しかし、いま読み返してみると、よくもまぁこれほどの方々が執筆し、広告を下さったものだと頭が下がる
ばかりです。
まもなく、私は出版社に”たった二人の工場から”での実生活を書くようにと頼まれて、夜中にこっそりちゃぶ台に向かいました。本になると、夫は「油断ならないものだ」と眼をパチクリしていました。テレビだ、ラジオだと騒がれたひところ、夫は頭をかかえるやら喘息発作を起こすやらでてんやわんやでした。
三十七年、氾濫社の古い薬屋根が、消防条例に違反するので取り壊すと通告されたのです。移る所は見付かりません。仕方なく「月刊いわき」二十号までを刷った印刷機を売って、東京へ戻る決心をしました。私たちの、いちばん苦しい時代に助けていただいた、いわきの方々の御恩はとても言い尽くせません。この詩集の装画を描いてくださった佐藤卓布さん、民俗学者の和田文夫さんをはじめ、多くの方に、四十数年経った今もずっとお世話になっています。いわきは私の第二のふるさとです。
東京では、出版社のご紹介で、私の本を刷った印刷会社へ二人一緒に勤めさせて頂きました。そして、一年後に私は癌の手術、夫は知人のお世話で別の出版社へ就職しました。
昭和五十四年に、いわきご出身で現代詩研究会当時からの友人、芳賀章内さん、大河原巌さんと「鮫」を創刊することになりました。長い歳月の友情の結晶です。以来、夫は気ままに作品を書かせて頂きましたが、ご迷惑をかけ通しの同人でした。昭和六十二年に「戦争抄」六十三年に「白日夢」を出して頂いたのもすべて「鮫の会」の方々のお骨折りでした。
夫は、私と暮らした五十五年のあいだ、喘息とお酒の連続で、どちらもやむことはありませんでした。平成六年からは、呼吸不全で常時酸素吸入をするようになりました。この原稿を書いたのはその頃ではないかと思います。しだいにけいれんがひどくなりました。鼻へのチューブで酸素を吸いながら、札幌へ発つ前日まで、晩的はもとより、苦しさを忘れるためだと、ときには昼的、朝酒までたしなんでしまう始末でした。何を言っても聞くような人ではありません。せめて夫のストレスを少なくしたいと願う私は「そうね、お酒は百薬の長だものね」と慰めるよりなかったのです。ただ、病院の検査ではいつも血圧、肝臓、腎臓など全く正常だと言われたのは救いでした。苦しいのは呼吸だけで、酒の害はいっさいなかったということです。
あるとき、伊東へみえたお客様と酒盛りをしていた夫の話を、うしろで聞いてしまいました。
「うちのかあちゃんはおかしな女ですよ。今までいっぺんもヒステリーを起こしたことがないんですからね」
じつは、おカネがない、などと言えば、夫はたちまち喘息発作で倒れてしまいますので、けんかなどできません。長い年月、彼の気に入らない話はなるべく口にしないように心がけてきました。
夫は、私が何か書くと「ミミズのたわごとじゃ」と言いました。ところが、夫の部屋で書店名入りの紙カバーをかけた私の本を見たことがあります。取材で家をあけた私の身勝手も、叱言をいいながら、心のどこかで許していてくれたものと感謝しています。
札幌へきてまもなく夫は膀胱結石の手術をうけました。その日、ストレッチャーで運ばれる夫が首を上げ「モンブランが飲みたい」と言って手術室の中へ消えました。とっさに、私は山の名かとふしぎでしたが、それはお客様に頂いた高級ウイスキーの名前だった、と気がつきました。それから一年二か月の入院中、意識だけは衰えることなく、記憶もはっきりしすぎるくらいでした。二、三度危篤になりましたが何とか持ち直しました。平成十三年十一月、八十三歳の誕生日一週間前に、少しも苦しむ表情をみせずに逝きました。前日に見舞ったとき、新しいヘヤーブラシを持ってこいと言うので、私はハンドバッグに用意していたところでした。夫は、たびたびうちへ帰りたいと言っていたのです。まさか、それが最後になるとは思いもよらない別れでした。
いま、私も同じ病院の内科へ通っていますが、付き添いのヘルパーさんに、つい”エレベーターで八階へ”と言ってしまい笑われます。そこに夫がいれば、話したいことが山ほどあるのです。何よりこの”戦争抄”の話をして喜ぶ顔を見たいと思います。
(「暦日/真尾悦子」より)
目次
- 地の果て
- 花
- 秋風
- 夏
- 空
- 晩秋
- 土の中
- 虫
- 土の上
- 傷(かな)しく歩く
- 黄河の畔り
- 日の丸
- 肌冷え
- 鬼
- 季節
- 初冬
- 黙す
- 認識票
- 修正
- 一つ星
- 大黄河
- 睡る
- のどかな写真
- 夏
- 桃李の道
- 前線
- 祈った人
- 無
- 土
暦日 真尾悦子
関連リンク
真尾倍弘・悦子夫妻のこと(いわき鹿島の極楽蜻蛉庵)