風化の季節 恒松恭助

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 1946年9月、潮流社から刊行された恒松恭助(1910~2001)の短編小説集。挿画・装幀は岡村夫二。

 

 昭和三十一年から約九年間、私は小さな子どもたちのためのテレビギニヨール劇『チロリン村とクルミの木』を、馬鹿の執念のように書き続けてきた。私には私なりの、ひとつの《夢》があって、この仕事だけに九年のあいだ自分を打ちこんできたのである。ところが、そんな仕事が終った時、私はしばらくのあいだというもの、奇妙な虚脱状態に似たものにおちいった。ひとつの《夢》にとりつかれて熱中していた自分という人間が、たまらなくむなしく思われてぼんやりするのである。しかし、考えてみれば私という人間は生れたときからこういうむなしさを繰り返しながら今日まで生きてきたような気もする。そして、これからもそういうむなしさを繰り返して、この世から消えていくのかもしれない。しかし、何はともあれ、そんな虚脱状態からなんとかして脱出したかった。このむなしさの正体をみきわめるためには、やはり、小説を書かなくてはならないと思った。テレビの仕事をしながら時間をぬすんでは、どうしても書いておかなくてはならないと私自身が考えている作品のノートのようなものを、こつこつと書き溜めてきた。それは私という人間が生きてきた《私自身の時間》でもある。「風化の季節」はそのひとつをまとめあげた作品である。
 しかし、敬愛する友人でありおたがいにひそかな悪友である石川利光さんが尻をひっぱたいてくれなかったら、私はこの作品を書きあげることができなかったのかもしれない。そういう意味で利光さんというひとは、私にとっては、ほんとうにありがたい仲間なのである。何度か書き直して最初の原稿の約半分の枚数になった時、もう手離さなくてはいけないと思った。私はその原稿を利光さんのところへ持って行った。彼に第一番に読んでもらいたかったのだ。さっそく読んでくれた利光さんは、この「風化の季節」を潮流社の社長八木憲爾氏に推してくれた。八木氏は利光さんの話だけでおそらく原稿はろくに読まないで私に上梓を約束してくれた。これまでに私の本といえば『チロリン村とクルミの木』という四巻の長篇童話があるだけである。「風化の季節」は私の小説の処女出版である。それだけに私の幸せな気持は深い。十年ほど前に仲間のひとりである浜野健三郎がその労作『私版スサノオ記』を出版した時、彼はしみじみと「自分の本を持つことはいいものだぞ」と言って私をうらやましがらせたものである。いま、私は石川利光さんの友情と八木憲爾氏の好意をありがたく噛みしめながら、そんな幸せな気持をひとりでしみじみと味わっている。この友情と好意を裏ぎってはならないと思いながら……。
 「風化の季節」といっしょに本書におさめた「或る少年の季節」と「不惑の季節」は、いずれも『文学者』に発表した作品をそれぞれ新しく書きあらためたものである。このふたつの作品はどちらも私にとっては「風化の季節」と同じくたいせつな《私の時間》でもあり、読んでもらいたい作品でもある。
 私の脳と肉体がいつだめになるものかまだはっきり判らないが、いまの私は、その時がくるまでは、雑草のように生れて雑草のように生きている自分という人間をたいせつにしながら、やはり、執念深く《私の時間》を書き続けていかねばならないと思っている。
(「あとがき」より)

 


目次

  • 風化の季節
  • 或る少年の季節
  • 不惑の季節

あとがき


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