1971年8月、北方新社から刊行された植木曜介(1914~1971)の遺稿詩集。編集は植木曜介詩集編纂委員会。著者は弘前市生まれ。
植木曜介は天性的に詩人の景質をもっていた。彼は昭和八年、二十歳のころから詩を発表したが、その作品はナイーブで、美しい抒情があふれていた。
昭和三年に東京から「詩と詩論」が出され、それまでの詩壇に新風を吹きこんだが、その影響は本県にもいちはやく及んだ。このころから十年間ばかり、本県もまた新しい詩の興隆期となり、数多くの若い詩人が登場した。「北」(第一次・第二次)「府」などの詩誌や、東奥日報の「サンデー東奥」、弘前新聞学芸欄などがその舞台であった。
これらの若い詩人たちの中で、植木曜介は斬然頭角をあらわしていた。感性の豊かな彼の作品は、よく磨かれた言葉をもって、独自の抒情を展開してみせた。それは極めて新鮮であり、魅惑的であった。
そのころの植木曜介は、ランボオを愛し、ヴェルレーヌをこのんだ。巷に雨の降るごとく、
わが心にも雨が降る……若い彼が、このヴェルレーヌの詩句をよくくちずさんでいた。
やがて長い戦争が始まるようになると、彼は詩のペンを折った。その間は上京して、ひたすらレコード音楽に親しんだ。彼はまたすぐれてよい耳の持ち主だった。内向的で温順な性格の彼は、この戦争の間を、ひとりで古典音楽の中に身を沈めていたのである。
戦後、帰郷した彼は、再び詩のペンをとった。自分でさきにたって詩誌「壱年」を創刊した。また「偽画」「くうたふむ」などの詩誌にも作品を発表した。
これらの作品は、戦前の青春時代のものとはおのずから異って、深い孤独への沈潜をその底にとどめている。そして、悔恨と死とが、繰り返しうたわれるようになった。
それはさながら、彼が愛したヴェルレーヌが、獄中で「知恵」を書いた心境に通じるものがあるように思われる。植木曜介の内包していた不幸や苦悩が、これらの作品のなかに形象されたわけであろう。彼の詩が深い悲哀に彩られているゆえんである。
彼は昭和四十六年二月十九日に脳卒中のため急逝した。五十八歳であった。生前彼は独立の詩集をもたなかった。幾度かすすめたが、それに応じなかった。「詩集などというものは、死んでからもしその作品がよかったら、他の人が出してくれればよいものだ」というのが持論であったようだ。
死後、友人たちで彼の詩集を編むことになって、話し合いをしていたところ、「北方新社」の二葉宏夫、成田俊太郎両氏から協力の申し出があってすぐ着手した。そこで北島一夫、荒井秀実、加藤忠昌、藤田勇三郎、石黒英一、木村義昭、船水の七名が編纂を担当、戦前のものは主として北島、戦後のものは船水が収録作品の選択に当たった。そして六月三日の編纂委員会で最終決定をみたのである。
(船水清)
目次
・十方暮集
- FURNITURE
- 予後
- 辻
- 歲月
- 冬夜
- 赤い靴下
- 饑餓の章
- 街角に
- 雪崩
- 十方暮
- 朔冬の書
- 珊瑚礁
・木犀集
- 1 南無仏四行詩抄
- イ・秋の歌
- ロ・音楽
- ハ・豆ランプ
- ニ・板留温泉
- ホ・温湯温泉
- ヘ・秋夜低唱
- ト・冬の旅
- 2 木犀集
- イ・雉子
- ロ・岩燕
- ハ・吊ランプ
- 二・君が死んでから
- ホ・嶽温泉
- ヘ・木犀
- 3 尾花帖
- イ・雉子の旅程
- ロ・湯段温泉
- ハ・尾花帖
- ニ・桜の園
- ホ・海のひと
- ヘ・手紙
・方言詩集
- えぽたの垣根(かきぎし)
- 協奏曲(こんつえると)
- 子守女(あだこ)の背中(へなか)で聞いだ唄コ
- 帰郷
- 詩作(うだつぐるごと)
- 地獄街道(けど)
- 春
- 人殺(ふとごろし)
- ぐりした凧(たご)コ
- 春
- うら盆抄
- 彼岸花コ
- 乾橋(いぬいばし)の水コ
- 謎
- 家出
- 放浪性
- 雪(ゆぎ)
- 豌豆(にぎまめ)の花
- 鄉愁
- 河童について
- 天狗について
・鎮魂歌
- 花冷え
- 愛情記
- 鎮魂歌
- 壱年
- 門
- 鎮魂歌
- 南風は…
- 誕生歌
- 挽歌
- 審問
- 日
- 海への誘い
- 麦酒のバラード
- 黒麦酒の歌
- 哀歌
- 順序
- 三十七歳
- ヒュッテの夜の雪に
- ある夜、ホタルを……
- そうだ、あの時
- スイレンに
- わが誕生のまえうしろ
- ゼロ
- 日
- ゼロの音
- とぎれたバラード
- 算盤歌
- 十五人の盗賊
- 桜子