昨日いらっしってください 室生犀星詩集

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 1959年8月、五月書房から刊行された室生犀星(1889~1962)の最後の詩集。装幀は著者。

 

最後の詩集(あとがき)

 詩にある大切なものを失はずにゐるかどうか、それを見極めることの難かしさは、まとめた書物のかたちに現はして見ると判る。さういふ私の見解が達せられてゐるかどうか。これらの詩はほぼ十年間に書いたもので、一どきに十章くらゐ書いた「昨日いらつしつて下さい」とか「白い帆」とかがそれでありあとは二三章とか一章とかを随時に雑誌に投じたものである。これらは一様に何物かに触れて見ようとし、何物かを搜り出さうとしてゐるもどかしさがあつて、しかも其処まで行き着けないで茫然としたところがある。詩を求めた人間の最後の集であること、ふたたび集としてこれを問ふことの出来ないものばかりである。帰らざる昨日がこのような形で現はれ、オムレツの料理は優しいけれど、客はその料理に手をふれずに帰らなければならないやうである。


 人間が老いるといふことは、舌もまた老いることである。その舌に言葉はうかばない。そして言葉はたうに行方も判らずに去つて了ってゐるからである。それを知りながらなほ言葉を拾はうとしてゐる悶えがあつて、その微弱な悶えにすがつてこれらが歌ひ現はされたと見た方がいい。私は通りすがりのよく物を読む男に、石の上に腰をおろしながら訊ねて見た。おれの詩を読んでくれたかどうかと。その男は黙つて頭を振り去りぎわに一枚の名刺を私の手のひらに乗せた。そして私は驚いてその男の顔を見直し、さらに名刺にある数文字を熟読した。お前はまだ詩を書かうとしてゐるのか、何といふ執念ぶかい呆れた男だと書かれてあったのだ。

 私は正直にいふなら小説に書かうとした素材を覚え書ふうに、書き込んだ一冊のノートを持つてゐた。たとへば、或る若い女性と話をしてゐながら、その女性は私と自分の年令をかぞえて見て、それではわたくしはまだその折にはうまれてゐなかつたのですわと言はれた。私は距離の驚愕のためにその美貌から突き放され、相当深い処にうしろ退さりに墜落して往つた。といふことを客が去つた為にノートに書きこみ、また或る日に或る人が煙草を喫まうとしそれを口にくはへた時に、私は煙草のうつくしさに烈しい瞬きをして、それを本人に知らさずに眺めた。これもノートに書き込んでゐた。何でも眼にふれたもので気分を取り直すことがらを逃がさずに自分の物にしてゐたのである。

 私は小説の覚え書をしてゐる筈なのに、いつの間にか詩のもとになる生きた瞳をたくさん並べてゐて、それに順位を付け、名前をあたへてゐた。或る瞳は群衆の間に消え、また別の瞳は硝子の稜層の間に消え失せた。私は名刺をくれた男に数篇の詩を見せたが、その男は君はもう詩なんか書かない方がよい、爪を見せろと言ひ、私はその男に爪を見せた。こんなに爪はボロボロに欠けて砕けてゐるし、つやも張りもないぢやないか、詩をかくのはやめたまへ、君は詩にひたらうとしてゐるが死期がその間にただよひ、人間のあがきを君はかなでてゐるに過ぎないと彼はいひ、名刺を返してくれと言って、先に死んだ親友はこつこつと去って往った。この友は何時も乱酔してゐたのだが、けふは酔つてゐない素顔であった。

 処女詩集といふものは大慨自費出版の形で、今まで発行されてゐた。それなら一詩人の最後の集もまた自費で発行したらどうだらうと、私は印刷方面に詳しい人と何度も会見して自家版の相談をした。その内に気が変つて原稿は再び筐の中におさめられ、何年かが経つて了った。その何年かの長い間に無名詩人の詩集が数十冊も、私の机の上を訪づれ机の上から去つた。私はこれらの詩集から私にないものや失うたもの、にはかに言葉を拾ふために街に出掛けてみたが、街には私に見破られる程度の物すら、とどめられてゐなかった。自らを知ることのない憧着の嘲笑は、崩れ落ちる波がしらのやうにせせら笑ひをし、私は頸をちぢめてその前を通りすぎた。そして名刺をくれた男にあふと嗟嘆して言った。僕の中の僕といふ者は一体どうなつたか教へてくれ、僕の中はがらんどうぢやないかといふと、私の親友は一生書きつづめに書いて最後にまだ一巻の詩集をほしがるといふことは、神をも怖れざる者だよと平凡なことを言ひ、むし歯を見せて彼は嘲笑つた。そして赤ん坊よ、お前は五時に若い女に逢ふといふことを頭にぶらさげてゐて、実際は五時にも六時に逢へさうもないことを逢へると思つて歩いてゐるに過ぎない男だと、彼はけふは大変に酔つてゐて急に自分の古帽子を手にとつて、私の頭にすつぽりと被せて上から二三度ぽんぽん叩いて言つた。こんどはお前がおれのまねをする順番だ、まねをして見たらどうかと言つた。私は答へた。お前のまねをするくらゐなら、松の木に首を縊ると、そして念のためにまた言った。ここに来てみると、人間の仕事の大きさにも驚くが、そのたかの知れたことも恥ぢていい、十行に足りない詩が書けなくなるほど恐ろしいことはない、詩人といふ者が崩壊してゆくことは勿論一人の人間の潰滅を意味するものだが、詩といふものの滅亡は我々にとつて我々自身が、少しづつ死んでゆくことだと、私は彼に答へた。少しづつ死んでゆくのが眼に見えて来るといふことは、悪い限にハツキリした眼鏡をかけて時計の針を見さだめるやうなものであつた。時計は午前一時を指して停まり、私はそれにねぢをきりきりと捲いた。

 

目次

  • 昨日いらっしって下さい 「景色は変る」外十六章
  • ひとりづつがべつべつに生れ 「けふといふ日」外四十二章
  • また秋ぐさに 「ちぶさ」外二十四章
  • 一人は愁ひて去り 「ひげ」外十五章

 

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