1979年12月、福井詩の会から刊行されたアンソロジー。発行は則武三雄、編集は杉本直。表紙画は雨田光平、抄紙は岩野平三郎。
一九七七年版を出してだからこれは隔年版になる。でもやはり小さい記念になったことが思われる。一年々々、ひとは年齢を加える。二年。
小さい歩みがある。わたし一個も土曜出版の「詩と思想」に本年から小説「私の鴨緑江」を書き出して、現在第六号まで。やはり努力を忘れてはならないと思う。死の日まで続けるであろうし、作家であれば死の日まで忘れてはならないのである。たとえ無名であってもわたしは死の日まで忘れないでゆこう。
また詩人とひとは言うが、詩だけではなくて詩論、詩ノオト、批評、パンセなどもひとはやってゆくべきである。詩論のない詩人などと言うのは、私には知解出来ない。
容貌などはどうでもよい。知性的な島崎藤村氏に比して、三好達治氏はオコゼの味噌漬けだなどと言われていた。顔貌や声がどうあろうと、われわれは詩作品を愛すればよい。
それからもう一つ、小さくまとまっては不可ないことを私は言おうとした。それは一九七七年版の以後のわたしの告白である。自省。
年刊詩集の「刊行」に対して、十把一からげの「行為」のごとく思う「各位」もあるだろう。
が、そうではないし、それだけでない「地方」に於いての、「所作」、ひとつの「行為」。ある「地方」で「きまりきったこと」を「きまりきったことでない」場あいにしていることもある。
ないと信じている。
同じ地方で、同じ意見でないひとも多い。ただしいだろう。が、小さい人間の所為のなかで、こどもっぽい点。なしとせず、十把一からげに甘んじて処する、所詮、同じ文学の周辺を、とぼとぼ、乏しく乏しく歩いている小さい「個」と「個」でないか。
あまったれるな、と言い、また自分もあまったれては不可ない。
年刊詩集は結局、お祭である。
お祭である。参加している者として祝祭し、おみこしを担いで見る。思い出になって花火になって消える。花火であって、深い仔細(詩才)はない。
(「序として/則武三雄」より)
目次
序として 則武三雄
- 慶賀ゆるやかに 荒川洋治
- 若狭路は初秋です 山本和夫
- 音 高島邦子
- 睡神の子守唄 友清恵子
- モラトリアム人 石井翼
- つまり 林克人
- 鐘 打ち鳴らす 禿氏朝子
- やぶれた たいこ 千葉吉弘
- 隔離病棟 渡辺本爾
- 赤いズボンのモーメント 和順高雄
- 祖母の足 横山和正
- 青磁の壺 高宮一郎
- あじさいの海 田中光子
- 詩三篇 竹部勝之進
- 飢え 宇野希代子
- 出発(たびだち) 上島善一
- 合歓の木 野形恭子
- かぜ 野村淳子
- ”名前うた” 岡部孫一郎
- 意図口 織田栄
- 人柱(ひとばしら) 大西ひとみ
- 火 山本新太郎
- 花火のかげに 前川幸雄
- シンキンコウソク 前島キヌエ
- 本郷台点景 馬来田静秋
- 赤い峠 古橋万里
- ヘブ 藤井則行
- ガンジスの朝 佐々木博
- 昇降場 佐々木秀志
- 相聞 三嶋善之
- 身辺雑事考抄 杉本直
- ヒロシマの歩道 稲木信夫
- 雨の時 原良雄
- つうと尺八 長谷川正男
- 野火の如く をさ・はるみ
- 泣き女のいる風景とその構造について 金田久璋
- 風と水 鎌数学
- 雪の朝のように 高橋輝雄
- 大きな構図の中で 津田幸男
- 母の作品 なたとしこ
- 法燈九条を継ぐ 山田憲治
- 濁点 前田文江
- 追悼 コカジ・トクオ
- 初窯 あおいなおき
- 台所の唄 三藤梨恵
- 含羞(はじらい) 石黒道甫
- 足の光り 西浦寅春
- 骨壷 中村義彦
- 夏の海 小林一郎
- 結婚記念日 相木美智恵
- 旅愁(カウァイ島に旅して) 道場英子
- C.Day Lewisの'George Meredith, 1861’小論 浜四津文一郎
- 白磁とあおみどろ 千葉晃弘
- 詩集の運命 則武三雄
- 鈴子詩に感動と共感 庄山章信
跋として 杉本直