1966年8月、黄土社から刊行された大木実の第9詩集。
作者はどう思っているか知らないが、大木君の詩は、詩のための詩ではない、人生――勘なくとも彼の生きた生活から、じかににじみ出た漿液である。その表現は、低声で、つつましく、控え目である。衆に対してわが信念のほどを獅子吼する、というような気配は無く、相手と膝つき合せて静かに語るか、あるいは独り虚空に向ってつぶやくかである。余人は知らず、私はその故に、大木君の詩に心惹かれる。私にとって派手な衣裳は目障りで、渇き求めるのは、この作者に於けるごとき詩心の純粋のみである。大木君の詩に接して三十年、これを愛することのいよいよ深まるのは、彼が生得の詩人たることを証するものだろう。
(「序文/尾崎一雄」より)
堀口太平さんが私の詩集を出してくださるという。「場末の子」「屋根」「故郷」「遠雷」「初雪」「夢の跡」「路地の井戸」「天の川」に続く私の九冊目の詩集ということになる。この他に「生活詩集」という選集と、年少の読者のための「未来」という詩集があるが、現在いずれも絶版である。
この集に収めた五十篇余の詩の配列には深い意味はない。もちろん書いた年代順でもない。
詩は自分のために書くものだが、一方ではひとにも読んでもらいたい願いもある。書いたものを発表し、詩集にまとめるからにはそういう気持がないといっては嘘になろう。けれど自分のものを読んでもらうことに私はいつもある恥しさを覚える。私の人間の弱さであろうか、私の詩の弱さであろうか。
詩を書いて三十年、みるべき進歩もなく、詠っているのは相も変らず狭い小さい私ごとばかりだが、(かつてある若い詩人から要するに彼の詩は生活のぐちであるときめつけられたが、)弱者の自覚に徹したい。
この一冊の詩集の詩のために八年を費やした。いつしか私も五十才をこえ、髪もだいぶ白くなった。
年少の日から敬慕する尾崎先生に序文をいただいた。先生には第一詩集「場末の子」のときにもいただいた。
(「あとがき」より)
目次
序文 尾崎一雄
- 序詩
- 未明
- 青春
- 不在
- 本
- 煙草
- 椅子
- 病気
- 鏡
- 秋夜
- 十年
- 少年に
- 夜半の目ざめに
- 不運
- 傷
- きょうの日だけが
- 田舎の駅
- 途中下車
- 石油罐の米びつ
- むすこと母親
- 娘
- 皿
- 初夏
- 秋夜
- 鶴岡八幡宮
- 建長寺
- 寒い日のゆうがた
- 家に帰る
- 老人
- 野遊び
- 栗の実
- 鶯谷駅通過
- 石塀のあるあたり
- 陸橋
- 雨の女
- 微笑
- 雨の歩廊
- シクラメンに
- いけないわ
- 橋
- 沈丁花
- 月夜の町
- 年月
- 詩人の家
- 浅草
- 霙の夜
- オルゴールの小凾をおくる
- 秋夜
- 窓口の娘
- 邂逅
- 月夜
- 見知らぬ同じ名の友に