1969年、私家版として刊行された高橋勇の第1詩集。
友人高橋勇が、その青春時代にものにした詩を一冊にまとめたいとの話は、かねて酒杯の合間から耳にしてゐたことなのであったが、ぼくが彼の詩に接したのはこんど出る詩集のグラ刷を読んだのがはじめてなのである。しかし、はじめて彼を知ったのは、十何年も前の敗戦の直後のことなのであった。街には戦禍の傷痕が生々しかったころ、吉祥寺の金子光晴氏宅で、森三千代さんから紹介された。ぼくはその時、彼が小説を書く人であることを知ったのである。初対面のころの高橋勇からは、その無口なところが印象となった。その後、まもなく池袋のおんなじ飲屋、おんなじ珈琲店で、しばしば会応機会があって今日に及んであるのである。ぼくはその間に、高橋勇が戦線に駆り出された男であることを知り、シベリアに抑留されて捕虜生活の経験を持ってゐることを知り、水泳を得意としてあたりなどを知ったのであるが、詩を書いてみたといふことは、随分あとになってから知ったことなのである。おそらく、それは彼が、詩を愛してゐるからなのであらう。いや、単に愛してあるといふよりは、ひそかに愛してゐたからに違ひないのである。
彼の詩に、「シベリアにて」といふのがあり、あるひは「水」などがあるのは、前に述べた通りに、シベリアでの捕虜生活や水泳があって生れたものであることは云ふまでもないのである。その他どの詩を見ても、彼の詩には大げさな身振りもなければ、大声を発するものもなく、そこに何かを静かに見つめてあるやうな詩である。その何かは、高橋勇にとっての「私」なのであって、全篇が「私」への愛情をたゝえてゐて、地味な光沢がにじみ出てゐる。ところどころに、文語体風のものがあるのは、彼のなかにひそんでゐる年令的なものゝ反映なのかも知れない。
ゲラ刷りに添えられた彼の手紙によると、この詩集は彼の青春時代に出しておきたかったものださうで、従って作品もその頃のものといふわけで、彼にとっては「今残骸を見るやうな、しかも楽しい気分で見られることも詩人でなくなったからでせう。」とのことであるが、この詩集もまた彼の「私」のためにひそかな愛情によって編まれたものに違ひないのである。しかし、彼が詩人でなくなったからであるかどうかは、ぽくにはわからないのであるが、現在は小説を書いてあるとの意味で詩人ではなくなったとつい、云ったのも知れないのである。
一九六一年八月( 「『虹』の詩人について/山之口貘」より)
私はこの詩集を編むにあたって思った。これはいわば、私の生涯における第三詩集である。その第一詩集は、私が二十三才頃から二十五才頃までの、もっとも詩作に自負を抱き、また、詩の絶望からの逃亡を企てた詩人のものであった。そして第二詩集は、満洲生活からシベリアの雪の果てにおける望郷の詩人のものであった。
しかし、これらの詩稿の多くは、一九四五年、満洲の廃虚の中におき去らねばならなかった。また一部分は、一九四七年晩春、ナホトカの港の税関を通過する寸前、一瞬の炎となって消え失せてしまった。
こうして、ついに姿を見なかった二つの詩集の詩稿はこの世から消滅した。永遠に私の記憶からさえも。しかしこのことは、かえって、詩人の恥を少しでも減ずることであったかもしれない。
ここに編んだ詩集は、私の遠い記憶の中から、また古い雑誌の中から拾い集め、これに、今も消え去らぬ詩魂の成果を加えることにした。いわば、この詩集は私の歩んできた道の略図といえよう。文を添えてくれた山之口獏はすでに故人となった。この貧しい詩集をふところに、泡盛を飲むより外にあなたに届くすべはもうない。
一九六九年三月
(「あとがき」より)
目次
「虹」の詩人について 山之口獏
自序(一九三八・六)
- 疲れ(一九三七)
- 買はれた山羊(一九三五・一○)
- 音楽 (一九三八・三)
- 絶望(一九三八・九)
- 帰郷(一九三八・九)
- 秋 (一九三八・九)
- 草花(一九三七・五)
- 虹 (不明)
- ニキータの罪(一九三九・七)
- 旋風(一九四一)
- 皺(一九六三)
- シベリアにて1(一九四七)
- シベリアにて2 (一九四七)
- シベリアにて3(一九四七)
- 無題 かなしみの湖ありて(一九四八・五)
- くちづけ(一九四八・七)
- 水1(一九五〇・五)
- 水2(一九五〇・五)
- 水3(一九五〇・五)
- 水4(一九五〇・九)
- 無題 囚人が珠数つなぎになって(一九五〇・六)
- 無題 白い壁に向って(一九五〇・五)
- 火華(一九五〇・六)
- 無題 よばれてゐるやうで(一九五〇・七)
- 無題 二十年前の美しい詩が(一九五一・三)
- 父親(一九五一・五)
- フリュート(一九五一・五)
- 無題 ぼろぼろのどてらに(一九五一・六)
- 無題 花と散らんには(一九五二・六)
- 無題 あなたのくださった(一九五二・一)
- 叛旗(一九五二・二)
- 晩酌(一九五二・一一)
- 無駄 自から死なす(一九五三・一)
- 無題 遠き少年の日におとらぬ(一九五三・一)
- 無題 人生の造型物に(一九五三・一二)
- 愛泉幼稚園の卒業生におくる詩(一九五五)
- 雨(不明)
- ひさかたの便り(一九三五)
- 便り(不明)
- 寒い夜(一九三五)
- 無題 故里に帰る夜汽車の(一九三五)
- 無題 健忘症昂じてか(一九五七・七)
- 無題 頭脳に空間あり(一九五七・七)
- この古劇拍手おくるべきか(一九五七・七)
- 嵐の後に(一九五八・五)
- シベリアの爪跡(一九六五・一二)
- 雪に死なす(一九六六・二二)
- 断章
あとがき