1978年6月、文化出版局から刊行された北荻三郎(1923~?)による「いろは」木村家の評伝小説。装幀は田代光。
牛鍋店「いろは」は、私が東京暮らしを始めたときはむろんのこと、私がこの世に生まれたころにも、すでに姿をとどめてはいなかった。だが、その壮烈と形容したいほどの興亡ぶりは、この店に生まれ育った。芸術兄弟の著書や明治文化史の本などを通して、わずかな片鱗をうかがい知ることができる。
うまそうな牛鍋のにおいに食欲をそそられ、自分の胃袋が小さいこと忘れて、とことん牛鍋の味をたしかめたくなった――。たとえてみれば、私がこの本を書く気になった動機は、そんなところだろうか。身のほど知らず、である。
ひとりの人間の生涯を、一冊の本に圧縮する、これは至難のことであり、おこがましい業でもあろう。それを承知しながら、めいめい並はずれて個性豊かな「いろは」の人びとを、まとめて一つの運命の流れのなかにとらえ、わずか数百枚の原稿用紙の枡目に埋めようとした、その結果がこれである。ただ恥じて、弁解はすまい。自らへの慰めは、精いっぱい真剣に書いた、それだけである。
実は今度の仕事を始めるまで、私は「いろは」の人びと、すなわち木村家のかたがたとは、どなたとお会いしたことがなかった。だからこそ思惑なしに関心をあったのだが、初対面をお願いした皆さんはこだわりなく私を迎え、ぶしつけな質問に寛容に応じて、故人のこと、自分のことを正確に語ろうとしてくださった。ご厚意を裏切らぬよう、私る極力、正確に記録するよう努めたつありである。文中、敬称はいっさい略させていただいた。
なお当然のことながら、文章の長短は、その対象とした人物の軽重とは何らの関連もない。最初の心づちりでは、いわゆる有名人より無名人、たとえば旅回りの女形役者だった木村荘七、画工として夭折した木村荘九などの人生に主眼を置きたかったのだが、仕事の出発をしたとたんに自分の能力の限界を思い知らされ、徹底してあきらめてしまった。せめてもの収穫は、アダチ龍光ご夫婦のお力添えを得て、奇術師木村荘六の足跡をわりとくわしく辿れたことだった。
縁――。ひと仕事終えたいま、自分の文章を校正刷りで読み返してみて、そのことを痛感している。老人くさいことを言うようだが、私も前世、いろはの人びとと何かの縁でっながっていたのではないか、そんな気さえする。相手にはご迷惑なことかもしれないが、この仕事をしている間じゅう、私もいろはの一員に加わったような錯覚をしていた。なぜそうなったのか、よくは分からない。
三田、両国、浅草、町屋、羽田、そして成田、結城……。まだ歩きたりなかった思いはするが、訪ねてみれば、それぞれに味わいの深い場所ばかりである。人と土地、その縁の強さを教えられたことも、有難いことであった。
(「あとがき」より)
目次
序章
- 荘平の章
- 牛肉戦国時代
- 曙の章
- 白い揚羽蝶
- 赤い人力車
- 牛肉王の死
- いろは崩壊
- 荘太の章
- 新しき村
- 三里塚の星
- 良心の自殺
- 魔術師マリニー
- 荘八の章
- 劉生との宿縁
- 俗美の遺産
- 荘十の章
- 荘十二の章
- 夢たちの墓
あとがき