1997年12月、ゆきのした文化協会から刊行された小辻幸雄による中野鈴子(1906~1958)の評伝。編集は稲木信夫。装幀は大村信和、表紙写真は大崎栄太。
一九九七年九月、大牧富士夫著『中野鈴子/付遺稿・私の日暮し他』が岐阜で刊行。同年十一月、稲木信夫著『詩人中野鈴子の生涯』が東京で刊行。そして、十二月、小辻幸雄著による本書が福井・ゆきのした文化協会によって刊行されます。
一九九八年一月五日は、中野鈴子死後四十周年です。これを記念するかのように、彼女の生涯と業績をテーマとして、各様の方法・スタイルをもつ三著がいちどきに刊行となりました。
大牧本は、著者が二十七年間にわたって発表しつづけてきた探究・探考ノートをまとめ、さらに新資料を紹介しています。
稲木本は、生前の彼女との出会いと交流体験を基として、あらためて資料を検討し、これまでのさまざま人の論考・研究をとらえつつ、評伝化しています。
本書は、三十年余にわたる文学史・地方史年表や著作の実績を生かして資史料を駆使、戦後の時代相の中を生きる彼女を主人公にドキュメンタリー化したものです。
ドキュメンタリーとは、『虚構を用いず記録に基づいて作ったもの。記録文学・記録映画の類。実録』(『広辞苑』一九九一年版)のことです。
このように、彼女の死後四十周年を期に、彼女をめぐっての手法・スタイルがちがう三冊がいちどきに刊行されました。
この四十年間、彼女の生涯と業績は、一時はなやかにもてはやされるということはなかったけれども、たえずさまざまな人によって紹介され、論じられ、研究されてきました。詩は何人かの人々の作曲があり、演奏もされました。彼女をモデルとした劇化上演もありました。そして、四十年後の今もこのような三冊の刊行です。
生前に名がひろく知られた人でも、死後十年たってなお記憶され回顧される人は多くありません。そんな実状の中で、彼女はなぜこうも長期にわたって、さまざまな人をひきつけ、さまざまな形で研究・紹介されつづけていくのでしょう。
中林隆信が、『中野鈴子全詩集』(一九八〇年・フェニックス出版刊)の解説に、次のように記しています。創刊号(一九五一年、新日本文学会福井支部発行の『ゆきのした』のこと)から彼女の死にいたるまでのまる七年間、鈴子の詩と生活とは『ゆきのした』とその会員抜きにしてはほとんど何ひとつ語れない。それほど彼女と彼らのかかわりは深かった。そして彼女が経済的にまた肉体的に苦しかったさなかを、なおひたすらに生きつづけえた支えになったものこそ、彼女が彼らとの間にもったこの世にもうつくしい友愛であった。
一九四五年の敗戦の年、中野鈴子は三十九才。一九五八年一月五日、五十二才の誕生日(一月二十四日)を前に亡くなりました。戦後を十二年あまり生きたのですが、七年を『ゆきのした』との「かかわり」の中で生きました。
この七年の彼女の姿の中に、彼女の特性がいちばんはっきりと現れています。彼女の業績が、凝集しています。本書は、彼女のこの時期の姿を描出しています。
本書は、一九五八年はじめの彼女の死で終わります。けれども、『彼女が彼らとの間にもったこの世にもうつくしい友愛』は、彼女の死をもって消えさるものではありませんでした。
一九六四年刊行の『中野鈴子全著作集』第一巻の「あとがき」(加藤忠夫)で、「鈴子の死は、私たちをどんなに悲しませたでしょう。私たちは、ようやく彼女の仕事の整理にかかりました。それから六年たちました。私たちは、ようやく彼女の仕事をまとめることができました。」と記しています。同第二巻の「あとがき」は、刊行までの全経緯を記しています。要約すると次のようになります。
島田栄樹による「中野鈴子著作目録」は、三年間かけて一九六〇年十二月に完成。一九六一年春、大崎栄太・木村正子・近藤伊奈子・島田栄樹・則武三雄による遺稿整理小委員会をもうけられ、遺稿収集・整理・筆写・区わけがはじまる。
一九六三年八月、ゆきのした文学会第十二回総会は、発行の全責任を会がおうことをきめ、会実務委員会が直接に編集発行することになる。しかし、会の前には財政上の問題が大きくたちはだかっていた。同年十一月の実務委員会は、長い討論のすえ、『著作集』はできるだけ安い値段で発行し、それを完全に売りひろめることによって、経費を生みだす、という基本方針をきめ、製本その他の労働を要する仕事には、会員・読者からの協力をあおぎ、売りひろめの協力者を組織することなどを決めた。
一九六四年、発行をまえにして、タイプ打ち・校正・紙折り・ページ組み合わせ・ホッチキス打ち・のり打ち・表紙づけ・裁断・発送など、福井市中心の会員・読者の協力でやりとげられていった。読者以外からも協力者があった。
第一巻の製本には、二十人の協力があった。朝から夜の十時まで、せんい工場の夜勤あけに出てきて手伝う。残業のあとをなお手伝いにくる、休日を一日さく。みんながいれかわりたちかわり働いた。
四月十四日、第一巻の製本おわる。十五日より発送・配布にかかる。
第二巻は、七月発行の予定が、八月半ばになった。
中野鈴子の生涯と仕事の価値は、『中野鈴子全著作集』の刊行実現が基となって、一九九七年の今日まで、さまざまな人とさまざまな努力によってさらにたしかめられ、伝えられてくることになりました。
また、ゆきのした文化運動とよばれる独特の草の根文化運動が形成されていきました。本書にも記されていますが、彼女が若い仲間と共に文学誌を創刊する時に、彼女の庭に生える「ユキノシタ」からヒントを得て誌名にしました。それは、多年生常緑草で、冬も緑をたもち、大地に走枝をひろげて増えていき、春はしろい小さい花を群れ咲かせます。葉は昔から薬用に使われています。まさに草の根文化運動のシンボルにぴったりです。
ゆきのした文化協会は、一九九七年七月に『生きているだけで平和の/神奈川県戦災傷害者の会20年の歩み』(発行・神奈川県戦災傷害者の会)の刊行に協力しました。神奈川県の戦災傷害者のみなさんが、国に生活援助を求めてもかなわぬまま、みんなもう老いてしまい、せめて活動記録をまとめたいと願われました。けれども、出版業者に頼むほどの資金はない、と知ったからです。労力はすべてボランティアでした。
この刊行にみられるように、彼女の存在を欠かしえぬファクター(要素・要因・原動力)として、ヒューマン(人間らしい)な「友愛」は、ゆきのした文化運動の特質として、少しも変質せずつづいています。
(「いまもあのよびかけが/序文 加藤忠夫」より)
目次
いまもあのよびかけが/序文 加藤忠夫
序章 一九四五年
- 敗戦まで
第一章 一九四五年~一九四八年
- 敗戦の秋
- 農民のいい分
- まっ直ぐにそのままに
- わたしは田を打つ
- なんと美しい夕焼けだろう
- 東京は晴れている
- さかさになって
- 花もわたしを知らない
- 体の中を風が吹く
第二章 一九四八年~一九四九年
第三章 一九五〇年~一九五三年
第四章 一九五三年~一九五六年
- わたしは出かけてゆく
- かんじたこと
- 体の力
- 働くものが文学を
- 「くわをふるって」・「どんぐり」
- 「花もわたしを知らない」出版
- 野菊の如き君なりき
- 今日はよく晴れ上がって
- ふなよせおどり
第五章 一九五六年~一九五八年
- 「ようきなった」
- 「ほやけど、書かなあかんね」
- つるがグループ
- 百姓精神
- 友よ 友だちよ!
- 最後の声
- 竹の皮の飴包み
- 陽は照る わたしの上に
- 野の子われらつよし
あとがき