1976年8月、新日本文学会出版部から刊行された粟田茂(1929~)の第1詩集。新日本文学会詩人叢書。著者は奈良県生まれ、刊行時の住所は奈良市東紀寺町。
どしゃ降りは別として、少々の雨なら私は傘をさしません。頭上をおおうあの黒い影が穴ぐらのイメージにつながるからです。いつの頃から穴ぐらのイメージを抱くようになったかははっきりした憶えはありませんが、十年ほど以前小さな詩の同人雑誌を始めたその頃からではないかという感じがします。それは、それまで勤めていた関西のある大きな私鉄を辞めた時期と一致します。そして、それは、私がデモに出なくなった時期でもありました。
もう一つ、私には午後の記憶は鮮明なのに午前は定かでないという妙なクセがあります。これも私鉄を辞めた時期と一致して始まったような気がします。
これらがこの詩集と、どんなかかわりをもつのか、私自身よくわからないのですが、ここに集めた作品の大半が、これらのクセが始まった直後からのものであるということを重ね合せてみる必要があるのではないか――そんな気がいましています。
この詩集は、私の第一詩集です。
一九六八年から七六年までのもの十九篇と初期の作品二篇を集めました。全体を1・2・3に分け、1は一九七一年十月から一九七五年までのものを、2には一九六八年から一九七一年五月までのもの、3には一九七六年のもの五篇と初期作品二篇を入れました。3の内、「ある日・午後」「眼帯」「石の翼」の三篇は未発表のものです。初期作品「布施という町」は<私鉄詩人>十六号(一九五三年六月)「寧楽の都」は同じく二十一号(一九五四年七月)へそれぞれ書いたものです。
ところで、今年五月二日の日曜日は、連休最中のこととて奈良は最高の行楽客を記録しました。そんな中を大阪難波から超満員の近鉄電車に乗って、寺島珠雄、近藤計三、川島知世の三氏が、わざわざ奈良まで来て下さいました。この詩集の作品を選ぶためです。午後二時半頃から夜の八時頃までの五時間余は論議をつくした文字通り編集会議の様相を呈しました。
当日は、桃井忠一氏も私のために奈良へ来ていて、ちょっとした手違いがあったため、行きちがいとなり、右の三氏とは違った場所でかなり長い間待っていて下さったということを、後日ききました。
私には、あれもこれも、実にありがたいことでした。
他に、小沢信男氏、徳留徳氏、新日本文学会出版部の方々にずいぶんとお世話になりました。
解説を引き受けて下さった川島氏には二重のご迷惑をおかけしました。
(「あとがき」より)
目次
1 穴ぐらを出ると街がある
- 穴ぐらを出ると街がある
- 葬列が通る風景
- ああ、ひびにあらたなり
- 闇はおれを取り巻いて
- 都市が人々の体臭を失ってから
- 午後の記憶からの剽窃
- きれぎれな午後の記憶
2 はにわが燃える
- はにわが燃える
- しゅんそん・ど・にほん
- プラットホームで
- ある旅信
- 太郎――ある風景
- 太郎――断章
- 太郎――塔影
3 ある日・午後
- ある日・午後
- 眼帯
- 石の翼
- 大和しうるはし
- 予感
- 布施という町
- 寧楽の都
「窖」から「砦」への長い遊歩道 川島知世
あとがき 粟田茂