1992年3月、北方新社から刊行さrた村上善男(1933~2006)のエッセイ集。写真は筆者。著者は盛岡生まれ。
この小冊は、ここ三、四年に渡って、画業のかたわら各誌・紙に寄せたエッセイをまとめたものである。前著の続編というよりは、並列の作業として見ていただけると有難い。
前半の、〈北からの便り〉は、宮城県以北の、各地を訪ねてのレポートで、後半のパートは、津軽から発想した、これも地域レポートのようなもの、といっていいだろう。
書名を、雑誌掲載時の表題の〈北からの便り〉とするつもりで進行させていたが、同名、または類似の書名で二、三既刊されていることを知って「津軽〈明朝舎>101発」とした。いかにも唐突な書名なので一応経緯をしるさしていただく。
〈明朝舎>とは、私の、津軽に於ける三度目の宿舎の名前である。命名は、家主の軽い依頼を受けて、村上がおこなった。(これで今迄に、通算十回目の引越しは、多いのか少ないのか?)
何年前になるだろう。用美社(鎌倉市小袋谷二―二三―九)の岡田満氏の後にくっついて京都府向日市上植野浄徳の、今は故人となられた寿岳文章先生宅に伺ったことがある。
かねて、先生の書物や紙に関する、「書物の世界」、「本と英文学」、「日本の紙」、「紙漉村旅日記」などのエッセイに啓発されることが多かったので、岡田氏の配慮が誠にありがたく、得難い機会を喜んだ。
その際の談話のなかの、消えつつある活版印刷への、愛惜の先生の言葉が、いまでも耳に残っている。なぜなら私もまた、身のほどを知らず『印壓の風速計』(駒込書房)なる活版印刷に対する盲愛を開陳した小冊を出版したことがあり、先生の想いが、よくわかるような気がした。加えて、明朝体の美学である。
わが意を得たり。帰りしなの、〈明朝体を守ろうよ!>の御言葉を、私はさまざまな印刷物とのかかわりの中で、かたくなに守ってきたつもりだ。~を守る会、さしあたって〈明朝体を守る会〉などといった組織体は苦手だが、自分の意志で、ごく自然体で、行っている。
――以上の志が、わが〈明朝舎>の由来? である。この機会に、あらためて、初出各誌・紙の編集者に、御礼を申しあげたい。とりわけ、二年余にわたって、連載上のさまざまな相談にのっていただいた季刊「アスティオン」(TBSブリタニカ)編集部・今井渉氏に御礼を申しあげたい。また、この書物が出版されるに、最もふさわしい「北方新社」(代表二葉宏夫氏)の手によって企てられたことを嬉しく思っている。最後に誠に煩瑣な拙稿の編集にあたった二部洋子氏に御礼を申しあげる。ありがとうございました。
(「あとがきにかえて」より)
目次
・北からの便り
- 青森 変容の季節
- 土澤 木の間から見下ろした町
- 画家・萬鐵五郎を追って
- 秋田 土間の暗がりで
- 八戸 風の町にて
- 黒石 静かな劇の町
- 角館 樅と水紋の町で
- 遠野 浮遊する石
- 塩竈 はじめに竈あり
- 恐山 〈見立て〉の想像力
- 酒田 拳湖と欅
- 弘前 市の賑わい
- 『津軽』の中の夢の風景
- 速射砲の科白の唾の霧
- 盛岡 四季のメモランダム、私的観光案内風に
- 「盛岡驛」を基点として
・北奥通信
- 色彩の磁場から(北奥通信一)
- 羊をめぐって(北奥通信二)
- 俯瞰の風景(北奥通信三)
- 秋保と嘉瀬と(北奥通信四)
- イメージの漂着(北奥通信五)
- 遠野郷で(北奥通信六)
- 『現代詩と色彩』展――日本詩歌文学館開館記念
- 『いわて・人と美』に寄せて
- R系の試行
- 装幀、萩原説に則って
- 中野「白玉」――澤田哲郎周辺
- 夏の少年――中村俊亮のこと
- 赫々とした造形
- 工藤哲巳氏を悼む
- 平賀敬展に
- 福田繁雄展に
- 詩的直観を核として――土方定一と松本竣介
- 故工藤哲巳に
- 版画運動――青森・弘前
あとがきにかえて