1982年7月、沖積舎から刊行された大野誠夫(1914~1984)のエッセイ集。装幀は藤林省三。
この三十四篇のエッセイは、昭和五十一年一月号から三年間綜合雑誌『短歌』に連載したものである。一回およそ二十五枚という約束であったが、いくらか超過したこともある。そのなかで「茂吉論」と「古貂の皮」の二篇は思うところがあり、除いたが、初めはこんなに長く書き続けるつもりではなかった。
新年号に「長塚節の影」を書いたところ、編集者の秋山実氏は、これはいけそうだとも思ったのか、電話で自伝を書いてくれという。勘で、何かあるぞと思ったのかも知れない。気儘に書きたいだけ書いて下さいといわれ、勇躍して筆を執ったことを覚えている。
若い頃は、ここで書いた体験など差ずかしくて人に語れなかったがいまは違う。少しも悲しまなくなったばかりでなく、むしろ、神がこのような試練を与えてくれたことを有難いと思うようになっている。
これを書いたことによって、父母に対する憎悪の感情など、どうやら消えてしまったようだ。もし書かなかったらいつまでも怨恨みたいなどろどろとした思いが胸中にわだかまっていたろう。
それはともかく、完結を待たずして評論・エッセイ部門の第三回『短歌』愛読者賞を受けたことは、大きな喜びであり、励ましであった。
「自伝といってもこれは、立志伝ではない。いわば敗北者の人生記録である、その真実なる姿を書き切ってみたい。それにしても毎月、思い出しても背筋の凍るような厭なことを書くのは、かなりの勇気を要する。家の者は、締切間際になると私の表情が次第に重苦しくなるのがわかるという。なるべく私がいらいらして不機嫌にならないように、万事に気を遣ってくれる。一章一章がいい作品であるように願ったのは、だから、私よりもむしろ彼女の方だろう。」
これはそのときの「受賞のことば」である。
父の家系は、「長塚節の影」を取材するに当っておよそわかったが、母の方が皆目わからない。ところが三年ほど前に備中高梁(たかはし)の松山城趾を必要があって見にいったとき、裏通りを歩いていると私の生家とよく似たつくりの家が並んでいるのを発見した。それは玄関に式台があり、その階段を上って真直に行くと奥の間になる、そういう造りであった。あるいは祖先はこのあたりから流れてきた武士であったのか。そう言えば、奥の間の袋戸棚の中に刀が何本かあった。
それにしても、若い日の恋慕の情のあやしさは筆舌に尽くし難い。この文章の「螢火」に出てくる押鐘りつに面差しがそっくりのうらわかい女性と電車に向いあって坐ったことがある。
彼女は、着ているものもみすぼらしくない。むしろ、はなやかである。風呂敷包を膝において、表情が何かたのしそうだ。私は息を呑んだ。ひょっとして、りつの娘ではなかろうか。彼女が乗りこんだ駅の町に、りつの嫁いだ商家がある。そういうことをかねがね聞いていたからだ。
私は思いきって、あなたのお母さんは、もしや……と訊こうとしたとき、電車は某駅にとまり、彼女は誰かに逢いにゆくのかまことに晴れやかな表情で下りてしまった。
(「あとがき」より)
目次
長塚節の影
灰色の門
奴婢の座
浮草
鷭の笑い
はらから
白い十字花
骨牌の宿
蜘蛛の子たち
幻妖
炎塵
地下室
光と影
火取虫
心猿
桜見
邂逅
螢火
落し穴
家出人
船津橋
血のえにし
幻稿記
詩人の手
明暗
魔の群れ
田の姥
あとは野となれ
禍福
あとがき