伊藤整 奥野健男

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 1980年9月、潮出版社から刊行された奥野健男(1926~1997)による伊藤整(1905~1969)論。装幀は黒川淳子。

 

 伊藤整は、文学におけるぼくの唯一の恩師である。人から先生と呼ばれることを厳しく拒否し、一生弟子ををつくらないと常々言われていた伊藤整が、「奥野の旦那だけはしようがないな」と、冗談まじりにしぶしぶぼくが弟子を自称することを認められ、最晩年には仕事の上で弟子として扱って下さった。
 ぼくのはじめて活字印刷になった文章(謄写版の雑誌は別にして)は、「自己告白とその仮装―鳴海仙吉をめぐって―」という、昭和二十五年(一九五〇年)十一月発行の東京工業大学文芸部雑誌『大岡山文学』八十七号に載った評論である。敗戦後文学にめざめたぼくは、織田作之助坂口安吾太宰治石川淳などの無頼派に、畏敬と羨望の念を持って夢中になったが、いちばん特別の親近を感じたのは、伊藤整高見順であった。特に伊藤整の「鳴海仙吉」は、まるでぼく自身を書いているような、親しさと羞しさのまじった共感をおぼえた。世の中にこんな身近い人間もいるのかと、嬉しくかつ羞しく、心強かった。その伊藤整が、東工大の学部(旧制)に入学すると、英語の教師としているではないか。怠け者の学生であったぼくも、伊藤整の英語の講義だけは皆勤した。そして先輩の吉本隆明らと、文芸部雑誌、『大岡山文学』を刊行したとき、心のうちを告白するように、前記の文章を書いた。以後伊藤整は、致し方ないという姿勢で、ぼくを弟子として受け入れ、それだけではなく、陰に陽に文壇へ、推薦して下さった。その代り、英語の試験ではかなり厳しい採点をいただいたが。
 小説だけではなく、伊藤整の「小説の方法」「小説の認識」を読んで、ぼくは「太宰治論」で思いがけなく、文芸評論家にされてしまった自分の評論家としての進路を、目からうろこが落ちるように開眼し、”伊藤理論”をもとにして文芸評論家として生きて来た。
 この本は、そういう文学者、文芸評論家としての師伊藤整との貴重な出会いと、その後のスタディと批評と解説とを、集成したものである。
(「あとがき」より)

 

目次

  • 平衡操作による文學
  • 伊藤理論と平野公式


作品論

  •  「街と村」「典子の生きかた」
  •  「鳴海仙吉」「火の鳥
  •  「小説の認識」
  •  「女性に関する十二章」
  •  「誘惑」
  •  「泉」
  •  「発掘」
  •  「同行者」
  •  「知恵の木の実」

  • 伊藤理論の地平線にて
  • ふたつの死
  • 八〇年代と伊藤整の再評価

あとがき
出典一覧


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