1948年8月、日京書院から刊行された福馬謙三のジャワ抑留生活の記録。
私は昭和十九年一月に、勤め先の朝日新聞社から、ジャワ、バタビア特派員を命ぜられて赴任、同地で終戰を迎えて昭和二十一年五月二十五日和歌山縣田邊に上陸歸還した。出發する時には十六貫の體重であつたが、引揚げて來た時には十三貫五百に減ってゐた。本書はその終戰から引揚げまでの抑留者の生活を書いたものである。
ジャワは世界でも指折りの美しい國である。田園の風景も、その田園に點在する農家のあり方に到るまで、まるで繪のように美しい。その美しさは自然の風物にとどまらず、自然以上にその生活、人情も美しい。淳朴さが失はれてゐない國の一つとして、ジャワは最初に擧げらるべき國である。私の接した一人一人のことを考へても皆、いい人ばかりであつた。しかし遺憾ながら終戰後はインドネシア人と日本人との間に多くの問題が紛糾した。不慮の死を遂げた人々も少くない。卽ちインドネシア人も個人としては、人情深い立派な人々が多いのだが、集團となると、その多分に持つ雷同性の故に、その昔の彼等の祖先が行つたやうに殘忍性を發揮する事も少しとしないのである。それらの事件の二三は本書にも收錄した。然しもつと大掛りな事件も少くないのであるが、私は私の眼に目擊した事件以外には筆を伸さなかった。
それらの忌はしい事件があつたとしても、ジャワ滯在中の思出は愉しいものが多い。特に月光の夜ボルブドールを見た時の印象深い感激や、ボゴールの植物園を見た時の驚異は今でも生々しい。ホテルでライステーブルを出された時、延々と列んでいろいろの食糧の皿を手にしたジョンゴスの行列を見た時、これが食ひきれるかと驚いたものだつた。
ジャワの街は田園に劣らず美しい。火焔木の眞紅の花が咲いてゐたり、白、紫、黃と將に百花撩亂の美しさを呈してゐる。それらの花にも優る一インドネシア・インテリ女性の一日本人に寄せた好意は、今でも忘れることが出來ない。「私」の人生の上にポツリと落ちた朝露のやうに、はかないものではあつたが、この栗色の肌を持った一少女――今では劇團の女優をしてゐる筈だ――の上に、幸多かれと訴りつこの書を書いた。
(「自序/福馬謙三」より)
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