ビルマの竪琴 竹山道雄

f:id:bookface:20191129095720j:plain

 1948年10月、中央公論社から刊行された竹山道雄の児童小説。装画は猪熊弦一郎。ともだち文庫24。

 

 大島欣二(テニアン)、島田正孝(タラワ)、田代兄弟(硫黄島、沖縄)……。私の知っていた若い人で、屍を異國にさらし、絶海に沈めた人たちがたくさんいる。そのうちの、ある人には何の形見もかえってはこなかった。ある人のためには共に死んだ人々の骨の一片がとどけられた。また、ある人のためには家からさし出した写真が箱に入れられてもどってきた。その屍はついに収められなかったのである。こうした人人は全國ではどれほどの数であろう。私の家のちかくの墓地にはいくつかのまあたらしい墓標が立っていて、それには、たとえば「昭和二十年四月二十四日南洋群島セントアンドレウ諸島ソンソル島ニ於テ戰死行年二十三歲」といったような文字が記してある。この物語の主人公の名は、そのうちの1つからかったものである。
 この校正をしながら、私はたまたま「はるかなる山河に」―東大戰疫学生の手記を読んだ。
 これほど心をうごかされた本はなかったが、この戰疫学生の中には私が知っていた人もいくたりかいる。ああ、この人も――、と思いながら読んでいると、中村德郎君の手記があった。この人については浅からぬ思い出がある。昭和十五年の二月のことだったが、中村君が学校を長く休んで消息も分らず、どうしたことかと案じていると、突然、新聞に彼の三本槍雪中登攀の壮挙が報ぜられた。いまあの人がこれほどにもふかく考を感じていた文章に接して、追懐にたえないのである。
 中村君については「比島方面に向い以後行方不明」とある。しかし、彼の友人の一人は「中村は生きている。きっとまだ生きている」といっているそうである。それは、「<ビルマの竪琴>を読んでそう思った」というのであるが、これをきいて私は感概がふかかった。そういわれてみれば、中村君はそんな人だった。そして、作者は自分の空想が生みだしたものが何か事実の裏書きをされた思いがして、うれしかったのである。
(「あとがき」より)

 

 
目次

  • 第一話 うたう部隊
  • 第二話 青い鸚哥
  • 第三話 僧の手紙

あとがき


NDLで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索