1962年5月、私家版として刊行された柴田苗太郎の第1詩集。題字は大日方華岡、カットは東光寺啓。著者は秋田県生まれ、刊行時の職業は警視庁職員の機関誌「自警」編集部。
私の三十有余年の詩友柴田苗太郎君が、今度初めて詩集「雑草の歌」を上梓した。面白いことには、柴田君はほぼ同時代に、秋田の田舎の百姓家に生れ、私は沖縄の南端石垣島の草深き百姓家の小倅として生れた。
柴田君は幼少の頃から文学を志し、同人雑誌など出していたというが、私もまた同じ頃、同人雑誌を出したり、島の新聞に詩を発表したりしていた。この北と南の詩人の卵は、その後幾多の人生の新余曲折を辿って、警視庁丸の内警察署で一緒になり、そこで激しい勤務の余暇に詩を作り文学を論じながら大禍なく過した。
私は当時すでに詩人佐藤惣之助先生の門下に入って詩誌「詩之家」の同人だったので、昭和六年の二月に、柴田君を推薦して同人に参加させ、次々に作品を発表してもらった。それが、彼の詩人としてのゆるぎなき基盤となった。
しかし、詩人としての宿命は、決してなまやさしいものではなかった。それが警察官という職務だけに、およそ詩とは縁遠い職場の中にあって、なおかつ歌わないではおれないというところに、悲痛なものがあった。柴田君も「あとがき」で次のように述べている。
「厳格な階級制度の中に、三日に一日は夜勤をして、火の中、水の中もくぐり抜けてきた三十五年である、この階級制度の人間関係の中で、いかに傷つき、ゆがみ、卑屈になってゆくかは、その中に生きた者でなければ分らない。」
左様、全くその通りであった。が、考えようによっては、その不遇で困難なイバラの道を克服して限りなき前進のできたのは、如何なる権力や階級制度をもってしても、断じて踏みにじられることのない、柴田君の激しい詩精神のおかげではなかったか。詩の美しい花々は、えてして、そのような土壌から花開くものだからである。その環境に耐えきれずに、詩筆を折っていたら、彼は本当の詩人ではなかったであろう。
詩人とは、正真正銘の詩人とは、如何なる制度や環境の中にあっても詩を作り、老境まで歌い続けなければならない。つまり、人生の抒情時代といわれる二十才前後には、誰でも詩人になりたがるものであるが、マラソンのように一緒にスタートを切っても、ゴールインするのは本当の詩人に限られる。わが柴田苗太郎君は、まさにそれに該当する。二
柴田君は五百人余の大世帯で、日本一の同人誌といわれた「詩之家」で勉強しただけに、一人一党主義を標榜する佐藤惣之助先生の下で多くの詩人と流派を知った。
シュールレアリズム、ダダイズム、アナキズム、コミュニズム、バルナーシアン、新感覚派、野獣派、人生派、民衆派、生活派等々の雑居であった。
当時の詩壇の風潮は、シュールレアリズム(超現実主義)と、プロレタリア詩の両極端に分かれ、その中間に介在する流派は、認めがたいとされていた。そのために私たちは生活派の旗を高く振りかざして、激しい論陣を張ったものであった。
詩には流行や流派は不必要であり、おのれの欲する表現形式を自由に駆使して、真実を歌う以外にはない。そこでわれわれをしてショールレアリズムの詩人たらしめなかったのは、超現実の世界であぐらをかいているには、あまりにも厳しく、激しい勤務と、貧しくて苦しい生活のゆえに、勢い行動人、生活人としての生活感情を打ち出すためにも晦渋で難解なシステムにはついていけなかったからである。さらにプロレタリア詩人は、革命的なイデオロギイを背景に、怒鳴り続けてばかりいたので、それにもついていけなかった。だからわれわれは、生活と行動の詩人として、流派や組織に左右されることなく、自分の詩を書き続けてきた。
私は在職中多くの詩集や随筆集を出版し、中には映画化されたものなどあって、一応ジャーナリズムに乗っていたので、昭和十六年の七月、警察をやめて作家生活に入った。だから私の詩は例え警察官や勤務を歌う場合でも、象徴的になりがちであるが、柴田君は真向うから警察官ととっくみ、殊に下積みになって働いている巡査に、ひたぶるに愛情の手を差し伸べて、高らかに歌い続けている。だから彼は日本唯一の、いや世界にも類例のない特殊の詩人であり、詩集「雑草の歌」が高く評価される所以である。
柴田君は三十五年も平巡査で、大禍なく勤めてこの程職を辞し、警視庁職員の機関誌「自警」の編集部入りをして、相変らず詩の選者をしている。そんなわけで彼にとっては、巡査がすべてであり、その下積みの生活の中から酸酵する哀歓が、彼の詩の源泉になっている。彼は、雪国の人間特有のねばり強い性格を持ち、無口で、ぶすぶすいぶっているが、その火は消えそうで絶対消えない。
彼は詩人としての美しい夢を描き、その夢を実現しようとして、厳しい現実の前にしばしば、脆くも打ち砕かれた。けれども彼はその夢を放棄するどころか、虹のような空想と想像の世界に生きる。彼はそうしなければ生きておれない人間なのだ。三
この詩集の題名になっている「雑草の歌」の詩は、安保闘争の騒ぎの中に、雲霞のごとく押し寄せてくるデモ隊と右翼団体の中に板挟みになって、罵しられ、唾をかけられ、踏まれたり、傷つけられたりしていても、訴えるすべもなく、歯をくいしばって苦悶しながら警戒取締りの任にあたる警察官の心境を、高らかに歌ったものである。その点、この詩は全警察官の心境を代弁した貴重な詩といえよう。当時の東京朝日新聞は、素描欄でこの詩を紹介した。
寄せては返し、返えしては寄せる 怒涛!
厳はみじろぎもせず
押しては返し、押しては返す。狂涛に倒された 肋骨を踏む
無数の靴、赤い旗、プラカード放たれた罵声の毒矢が
私の心臓を突き刺す
私は泥靴とプラカードに埋れ
深い昏酔に落ちようとするまたもあがる喊波(とき)の声
降りそそぐ毒矢の中で
私はよみがえる
立ち上って声なき叫びをあげるあらゆる暴力をなくす者は誰か!
真の平和を求める者は 誰か‼雑草は埃にまみれて路傍に立つ
踏まれても踏まれても炎天に立つ
柴田君の詩の底を流れているものは、この「雑草の歌」のように、”踏まれても踏まれても炎天に立つ”不屈の精神であろう。
それは反抗の精神とは異質のもので、正義と平和を熱愛する詩人のヒューマニティにほかならない。しかも彼は常に一兵卒としての厳しい自己反省と、自虐の上に、ありのままの人生を把握し、真理を追求して止まない。彼は無口で内気であるが、内包する詩への情熱は、噴火山のように燃え続けている。
私は最近十九年ぶりで「伊波南哲詩集」を未来社から出版した。第三詩集である。柴田君は自警誌上で親切な読後感を長々と書いてくれた。私はこの古い詩友がまだ詩集を出していないことを憂え、彼に会うたびに、極力勧めてみたが、どういうわけか、はにかんでばかりいたが、いつ心境の変化をきたしたのか、いよいよ詩集の処女出版をする気になってまとめたのが、この詩集「雑草の歌」であ
る。
私は送られた詩稿を読みながら、幾度か唸った。みごとな珠玉篇にぶつかったからでもあるが、三十五年の警察勤務の間、崩折れずに、よくそこまで耐えて来、それらのがさつな生活に、詩のプリズムを当てて、美しいさまざまな花を咲かせているからである。
この詩集は、柴田君のことだから、おそらく千以上の詩から良心的にアレンジして編んだものであろう。というのは、どの詩にも無駄がなく、狙っているものが小気味よく射止められているからである。それは詩人としての永い年季を入れたせいもあろうが、それよりも彼の詩人としての宿命への認識と、実践のゆたかな稔りであった。
再び言う。この詩集は日本で最初に出る警察官を高らかに歌った詩集であり、世界でも類例のない独自な貴重な詩集であると――。私は乞われるままに、欣然として親友柴田苗太郎君の詩集へ、この小論を送ることにした。
(「序 独特な詩集/伊波南哲」より)
目次
序、独特な詩集 伊波南哲
・雑草の歌
- 序詞
- 雑草の歌
- 巡査の歌
- 警笛の歌
- 交番の歌
- 鉄兜と向日葵
- 時計のねじ
- レボルバーは注く
- 蝸牛の歌(1)
- 蝸牛の歌(2)
- 桃の花
- ラムネの夏
- 弔詩 堀内秀雄君の霊に捧ぐ
- その名は警察官
- 髭について
- 不眠の塔
- お巡りさんの唄
- 霜夜に祈る人に(田中前総監に捧ぐ)
- ドリームの国では
- 炬火はすべての人人のために
- 交通巡査
- 一本の万年筆
- 黎明
- 警察学校にて
- 決意
- 愛刀別離
・人生は楽しいか?
- 人生は楽しいか
- 太郎におくる詩
- 生れてきた日に
- 金蝿
- 竹
- 大樹
- 高邁について
- 窓と鳥籠
- 鳥籠について
- オーバーの歌
- 焼酎詩篇
- 私の薔薇
- 新らしい太陽
- 真夏の画布
- 蛮勇について
- 花咲ぢいさんのアリバイ
- 日日、捨てる者は幸なり
- 不死鳥の国
- 冬の日の事件
- かたつむりの唄
- 平和のうた
- Kさんの唄
- 夫婦一景
- 蟻の歌
- ゆーとぴあ
- 幸福の売場
・季節の唄
あとがき