二つの旅 鈴木志郎康詩集

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 1983年11月、国文社から刊行された鈴木志郎康(1935~)の詩集。装幀は三嶋典東。

 

 一九八一年の秋に清水鱗造さんから「書きおろし詩集」をやってみないかと話を受けた。それから発行に至るまでに丁度二年経ってしまった。まずはじめは、日頃詩を書いている発想の仕方で、長い詩をいくつか書けばよいように思っていた。それから、一連の長い詩を書くために主題がいるように思えて来て、「二つの旅」ということを考えた。しかし、主題を決めたということが、そんなふうに詩を書いたことがなかったわたくしに、書くことを非常にむずかしくしてしまった。改めてわたしが詩を書くとき、日常生活しているときの気分に乗って書いていることをはっきりさせることになった。書けないままに、一年余りが経ってしまった。記憶に残っている事実と、その事実に書く段階で気分的にかかわる仕方がわからなかったのだ。
 その仕方がわかったから書けたというわけではないが、結局約束がのびのびになっているのが心苦しくなって、昨年の十二月に盛岡市に旅行した折に、岩手山の北側にある湯治場の松川温泉まで足をのばし、そこで思い切って「西の旅」を書くことができた。行わけにことばを書くというのは、気分を持ち上げていなくてはならないが、記憶を辿りながら気分を持ち上げた状態を保つのは意外にむずかしいことだった。雪に降り込められたような、行くところもない場所で寝起きしているのは、記憶に沈潜するのにはよいが、それと、行わけのことばを維持するのとはどうも違うようだ。ことばとしては同じで、シンタックスも変らないけれど、散文体とは違って、感情を生起させる仕掛け、または装置、または働きをことばに組み入れなくてはならない、ということが思うままにならないのである。
 「西の旅」を書いて、その仕方で「東の旅」も書けるのではないかと思ったが、そうは行かなかった。日常生活から離れたところに籠るということもできないまま、日頃の書き方で記憶を交錯させて書くよりなかった。それで、この方は何回かに分けて書くことになって、今年の四月の末にようやく書き上げることができた。
 記憶をもとにしてことばを繰り出すということをしているが、ことばで記憶がどこまで辿れるかということを考えているわけではない。また、自分の記憶を他人に語りたいという気持はあるが、それを他人に語ってどれ程のことがあるのかという気持もある。書き終えて、出て来たものを見ると、まだまだわたしは生きる積りで、現在の自分の考え方に立って、非常にエゴイスティックに記憶にあるものを意味づけているようである。といって、その意味の展開が十分になされているとも思えない。しかし、ここで一度持ち出してしまったからには、それはそれで続けなくてはならないだろう。この詩集は、わたし個人にとって結着に手をつけたと同時に、別に足の方は踏み出した地点を示しているものといえる。
(「あとがき」より)

 

 


目次

  • 西の旅
  • 東の旅

あとがき


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