1967年8月、晶文社から刊行された長田弘の第2詩論集。ブックデザインは平野甲賀。
わたしにとって、詩とはひとつの表現の形式に尽きるものではなかった。わたしは、なぜ詩を書くか、といったいわばわたしたちの生の探究ともいうほかないような必迫した往還のかたちを、いかに書くかという詩法の探究のうえに稠密にかさねあわせながら、これまで詩とかかわりつづけてきたし、今後もそうであるだろう。おそらく詩は、わたしたちに、自己救済の一手段ではなく、自己検証のしんの意味をもたらす。詩という行為が、自己と時代の限界への絶えざる挑戦という切実なイメージを、わたしの感情のなかにずっと持続してたもちつづけてきたのも、そうしたわたしの詩の感じかたにおおく拠っているだろう。わたしたちにとっての詩の磁場は自己と言葉の歴史に対する感覚ぬきには成立しえないだろうということを、わたしは、いまある息苦しさとともにあらためて確認しておきたいのである。
ひとは、本書のうちに、萩原朔太郎や中原中也にではなく、戦後現代詩のなかに自己の詩的出発を避けがたく択びとった、最初の戦後世代の熱い内部のみちすじを見いだすことができるかも知れない。わたしたちの詩は困難で屈折した試行にみちながら、完結しない現在進行形を今日なお生きつつあるが、その渦中に直接参加してきたひとりの内面のたたかいを、その緊張と疲労とをふくめて明確に記すことができたなら、本書のもつ意味はいくらかなりとも充当されることになるだろうからである。
本書に収録した詩論は、これまで(六二~六七年)に、わたしがさまざまの機会に書くことのできたエッセイを全体的に編纂したものである。冒頭に収めた『詩と秩序がわたしの初めて書いた詩論らしい詩論だった。ある恥じらいなしには読みかえすのがためらわれるも幾つかあるし、また他へのそのときどきの批評のかたちをとった場合も少なくないのだけれども、そうした不十分な言葉や未熟な表現、さらには積極的な誤解をもふくめて、結局こうしたしかたで詩について書くことは、最終的にはいつだってじぶんじしんへのはげしい反省と糾問になってゆかずにはいなかったようにおもわれる。
(「あとがき」より)
目次
- 秋の理由(序詩)
- 詩と秩序
- 詩と経験
- エリオットの死
- 鮎川信夫
- 大江健三郎
- 倉橋由美子
- 詩の論理と倫理
- 一<戦争>の問題
- 二われらの内なる不毛な自然
- 三詩的転回
- 四戦闘的友情のために
- 五「劇的なる精神」の錯覚
- 六時代感情と詩
- 開かれた詩
あとがき