1989年7月、花神社から刊行された八尋舜右(1935~)の第1詩集。装画はマッキー・コーダ、装幀は熊谷博人。著者は平壌生まれ。刊行時の職業は朝日新聞社出版局勤務、住所は川崎市宮前区。
折りにふれて詩を書いてきた。詩集を出すよう勧められたこともあるが、その気にならぬまま三〇年がすぎた。
それが、昨年の正月、唐突に、出してみようか、という気になった。われながら思いもかけぬ五二歳の異変であった。そのことを晩飯の食卓で口にすると、息子の陽一郎が「親父もそろそろ死ぬな」といった。晩夏、その息子が死んだ。
遺体を確認に北行する車中で、夭逝した北の詩人、寺山修司のことを思い出した。寺山とは、少年時代から郵便で作品を交換し、いっしょに雑誌を出したりした。上京して、最初に会ったのも寺山だった。桜の樹のしたで、たがいにはにかみながら握手した。死んだ息子とおなじ年頃の思い出である。青山の仕事場で最後に会ったとき、寺山は痛々しいほど衰弱していた。励ますっもりで、「銀座で酒を飲もう」というと、「いや、酒はいい、うまい飯を食わせてよ」とかれはいった。約束を果たす間もなく、寺山は逝った。北国で息子の骨を焼いていると、寺山のそのときの声音が耳底によみがえり、「今晩帰る。晩飯を頼むね」青森から電話してきた息子の最後の声と重なった。
一つの想念にあえてこだわり、かぎられたことばで、ひたすら似たような作品を書きつづけてきた。友人たちには、ソフィストとよばれている。総数八〇余篇。そのなかから、三〇代以前の作品はすべて捨て、一七篇だけ残した。なかに、詩集としてのまとまりを欠くのを承知で、歴史に材をとった詩を七篇収めた。未熟な作品だが、新しい試みだとして、熱心に勧め励ましてくだすった先輩詩人の好意が忘れられないからである。他に、今年になって書いた「領事館の虫」ほか、六篇の詩を加えた。
息子の死後、日常のことばを失った分、作品のほうが饒舌になった。
(「あとがき」より)
目次
1
2
- 夏焼城
- かげろう菩薩
- 唾の宗匠
- オルガン信長
- 逃げ首
- 霧の梟
- 黝い森
3
- 子守女が松花湖へ帰る日
- 娘娘廟の赤煉瓦
- 領事館の虫
あとがき