蝸牛疾走 足立三郎歌集

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 1965年9月、赤堤社から刊行された足立三郎(永守國祐)の第1詩集。編集は香川進、装幀は田中岑。地中海叢書第41篇。

 

 大正十年二月。日本橋吻穀町の鞄・袋物商に生まる。父は三代前から江戸に住みついた商人で、几帳面な反面、極めて剛直頑固、気に喰わぬ者をすべて田舎者と称した。母の方は何代前かわからぬほど古くから江戸にいたそうで、涙もろく何事にも感激した。
 この書は亡きわたくしの両親に謹んで捧げる。
 「江戸っ子」にこだわりすぎると、子孫が卑弱になりはせんかと思い、わたくしの代あたりから、「雑種政策」を採用する必要ありと考えた。斯くて純粋の農家より妻を得た。この政策は成功し、二人の子供は健康美貌に恵まれ、且つ頭脳明晰である。彼等二人が成長したあかつき、これをどう読むであろうかと気にならぬこともない。或いは全く読もうとしないかもしれぬ。それは潔いことだ。また一読、あわれな奴よと一笑に付すかもしれぬ。そうとあればますます頼もしい限りである。

 学校は半年の繰り上げ卒業となり、直ちに入営、北支に派遣され、終戦時、陸軍伍長として、青島より米国船に乗せられて帰国した。
 戦後四、五回職を替え、昭和二十六年現在の会社に中間採用された。鉄鋼の輸出に始まり、しばらくして石炭の輸入に廻された。米国の石炭五万屯と五隻の貨物船運賃、計約十億円のスペキュレーションを行った。少壮得意の時であった。だが思惑は全くはずれ、数万弗の損失を会社に蒙らせてしまった。課長職を去ることは当然であった。
 総務課々員に堕ちた。当座、何も仕事がないので、女子事務員とならんで謄写版刷りをした。静かであった。二、三年経って、課長代理から課長へと再び昇格した。この時重役から、香港へ行って仕事と支店を作ってこいといわれた。全く嬉しかった。ただ癌の再発で、死期のそう遠くない母にだけは、なかなかいい出し得なかった。
 昭和三十三年三月。単身香港に行った。地図を買うことから始まって、商売を練った。現地人を傭い入れ、店も整え、九ヶ月も経ったころ、何とか採算の見とおしもたつようになったので、妻子を呼ぶことになった。母はすでに死んでいた。そのための帰国は、仕事があるために、できなかった。香港飛行場に子供を連れて降りてきた妻は、わたくしを痩せしなびたといって嘆いた。とにかく香港での仕事は忙しかった。
 昭和三十六年五月。二代目支店長と交替の引き継ぎを了え、帰国することとなった。今までよく働いてくれた中国人社員達と別れるのはつらかった。
 帰国早々、日本語が通じるので便利だと妻はいった。子供達の英語は、まだ寝言にだけは残っていた。
 会社では機械の輸入に従い、のち鉄鋼の輸出を見、今日に到っている。ところが此の頃から、会社全体の経営がおかしくなり、ついに解散、超大手の会社に吸収される破目となった。すでにその仮調印がなされた。わたくしも階級が下げられることであろうし、この際もう一度初めから出直す覚悟ではあるが、年もだんだんとってきてしまっている。妻は、生活費さえ出してくれたら、もう偉くならんでもよろしいといった。今までのわたくしが、むしろ人一倍幸福であったのだと思う。だがまだまだ諦めてはおらない。

 戦前学生の頃、友人にさそわれて柳原白蓮先生の御指導を得、歌誌「ことたま」に入会した。ところがお弟子達がほとんど女性ばかりなので、恥ずかしくて止めた。それからは一人で作った。
 昭和二十九年二月。香川進と称する方と全くの奇縁で知り合い、八丁堀の一杯飲屋で落ち合うことがあった。同姓同名の歌人の名前は知っていたので、まさかとは思いながらもお尋ねしてみたら、まさしく御本人であった。作品からくるイメージとは随分違うものだと驚いた。
 「わたくしも実は、一人で作っているのですが」と申したら、早速この場で一首作ってみろといわれた。しばらく考えた末、割箸の細長い包み紙を伸ばして、裏に書きつけた。

 願はくば母と妻仲好く子供太り月給があと五千円増す

 その方は、とてつもない大声をひびかせた。「こいつは君、下手糞だが歌だよ。本物の歌だ。ワッハッハ」
 (この御仁はなかなかイケルジ)と思った。更に作品を見せよというので、戦中戦後に書き溜めた手帳二冊を後日お届けした。そうしたら、わたくしには全くの無断で、足立三郎なる名前のもとに、創刊間もない「地中海」に、その内の数首が掲載されていた。まんまと一杯ひっかかってしまった。かくて「足立三郎」が誕生した。
 爾来十余年。地中海社一員として、香川進先生、山本友一先生を始め、多くの諸先生、諸先輩の御指導に恵まれ、同世代には、米田、片山、田中、小枝、佐久間、小林、岡野、山村等々切磋琢磨の機会には事欠かず、また石本、小野といった若手英才が、中央、地方に輩出、っき上げてくる。特に、夕暮、迫空直門の方々を通じ、間接的とはいえ、それぞれ両大先生の一端ながらも触れ得たことは、幸福であった。今、如上の方々には厚く御礼申し上げます。とまれ、わたくしのように、臆面もなくいいたい放題のことを、勝手気儘に歌わせてくれるわれらが「地中海」を、こよなく愛しつづけている。

 わたくしは、論ずることが苦手である。かつては「唯一絶対の美などいうものは、観念としても在り得ない、在るのは、それぞれの時代に於けるそれぞれの人間に感じとられた個々の美、いいかえれば、歴史的、相対的、主観的な多としての美のみである」と断じ、また「作品が真に芸術的であるか否かは、それが作者(個)を媒介とする歴史的創造のエネルギーたりしか否かに懸っている」と気負ったことがある。だが実のところ、何だかわたくしには解らないのである。
 「足立は短歌に対するある誤解のもとに、作歌しているのではないか」との批評をいただいたことがある。「我にして誤解なれば、正解とは何ぞや」と開き直る愚は敢えてしないが、仮に、正解、正論なるものを確立し得たとしても、少くとも、わたくしの作品が進歩する原動力とならないことは事実である。否。かかる正論なり、乃至は目的なりが意識されて作られたとしたら、作品はますます自己本来の魂を失ってしまうに違いない。「論」は「作」のあとから出るものであろう。
 短歌本質論、乃至は作歌の方法論を、抽象的、観念的にかか論ずることは、無駄とまではいわぬが、少くとも論者の考えるほど重要なものとは思えない。哲学に於ける「認識論」が、かくいえるかどうかは知らないが、少くとも、経済学に於ける「価値論」が、その文献的意義は別とし、今日その現代的意義を失いつつあると、似たようなことがこの分野でも、いえるのではないかと、わたくしなりに思っている。
(足立三郎)

 

 

目次

  • 対かう
  • 揺られる
  • 誌す
  • 兵たりし
  • 敗る
  • 泣く
  • ぶってきし
  • 飛ぶ
  • 落とす
  • 立つ
  • 構える
  • 帰る
  • 吐く
  • 踏む
  • 叩く
  • なくなりぬ
  • 思う
  • 飢える
  • 任す
  • 走る
  • 狙う
  • 壊いえる
  • 及ばぬ
  • 消えたりき


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