風と雑草 詩村映二遺稿詩集

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 1961年7月、「半どん」の会から刊行された詩村映二(1900~1960)の遺稿詩集。表紙題字は出口草露。著者の本名は織田重兵衛、加古郡生まれ。

 

 亡友の思い出を書こうとして、二十数年の追想に耽けると、飄々孤とした詩村映二の姿が彷佛として瞼の裏にだんでくる。
 晚年の彼は、だんだんと人間の灰汁が抜けてきて一つの風格が感じられて来た。旧臘(昭和三十四年)すでに(胃癌手術後の)予後の所見を医師から極秘に知らされていた私は、この半歳にあまる彼の生活(健康状態)についてたえず気にしていた。半どんの仕事(経理関係)についても小林武雄とともに詩村を労わる意味においても分担者についてあれこれと相談をしたことも一度ならずあったが、自分の再帰を確信しきっていた彼はてんで受つけず、ひとりで厄介な事務を背負いこんでくれたのであった。几帳面な反面になかなか頑固なところもあって、自分の責任分野には容易に他の介在を許さないというふうであった。
 物慾に薄い人で、筋さえ通せば、どんなタダ働きでも厭わぬというふうなところがあり、人の世話をすることに喜びを感じているように見受けられたが、これは過ぎし日の彼が、いささかわが身に沁みての社会への償いであり、仏心であったのだと思う。そういう心境のなかに飄々孤とした、本来無一物といったふうな彼の風格が自ら出てきたのだと思う。
 詩村の世話好きなことで、私に一つの思い出がある。それは十年ほど前の師走なかばのことであるが、朝から白いものがチラチラする寒気凛烈たる日曜の午前だったが、大きな風呂敷包みを抱えて訪れてきた彼は、狭い私の書斎で小一時間あまりも文学雑談を交したのち、さて帰りぎわになって声を落して、ぜひとも今日必要なんだから絵を一枚買ってくれと、例の風呂敷包みを開けて六号の油絵を示したのである。それは私も知っているN君の静物画でサロン向きのおだやかな絵であった。八千円だということだったが、私は持ち合せのヘソクリが五千円しかなく、山妻に話したところで叱られるのが関の山だというと、彼は笑いながら五千円でもよいと即座に応じた。そのころ彼は湊川公園のうえで「山彦書房」というバラック建ての古本商を営んでいたので、私は正月向のネタでも仕入れる資金だろうと、ひとり決めをして女房に内緒で金を手渡したのであるが、詩村は「これでテキさんもどうにか正月が出来まっしゃろ…」と、意外なことを呟くので、私が、仕入れの金と違うのかと訊くと、彼一流の微苦笑をたたえながら、実は、栗林幸介をそこの町角に待たしているのだといった。なんのことはない、まんまと彼の作戦に一杯かかってしまったが、もちろん悪意どころか、栗林に泣きつかれての窮余の一策かと思うと腹も立たなかった。しかし、それにしても詩村などに軽くしてシテやられるようなことでは及川英畑もいささか甘すぎるぞ、というような考えから、早速に彼と連れ立って、半丁ほど下の往有で寒気にちぢこまっている栗林幸介を誘って阪急六甲駅の喫茶店に出かけた。そのころ栗林幸介は私なり山妻に対して不都合千万なことが重なっていて、家に出入りがしにくくなっていたのであったが、そこで詩村が一芝居打ったわけである。あかあかと燃えるストーブのそばで、一杯のウイスキーコーヒーに頬を赤らませながら、私は詩村に対して、他人の世話を焼くのもよいが自分の能力の限度においてやるべきであるといい、また、こうした詩村君の友情に対して君の生活態度は?と栗林をなじったり、世俗的な苦言を呈したものだったが、妊娠八ヶ月の女房や子供を抱えての苦しい世帯話しの泣きごとを栗林からきくと、詩村のいささか行き過ぎたはからいというものも無理からぬことと思い、ひとりぶらぶらわが家に帰る路すがら、わずか(その頃の私にとっては僅少でもなかったが)な金のことで年長の友に説教じみたことをいった自分が何んだかつまらん人間のように思われて恥ずかしかった。
 詩村映二を私に紹介したのは栗林幸介(そのころ彼は飯村光といって、夭折した画家の湊弘や石川某たちと交街社という文学グループを作り、詩村は風と雑草という詩誌を出していた)であるが、どういう間柄かは知らぬが二人は刎頸の交わりを結んでいたようだった。
 数多い文学友だちのなかで私には三人の悪友があった。上海から強制送還を受けたアナーキストの田代健(田代のことは拙著俗談義に記載の通りで尾崎秀実の友人)栗林幸介、詩村映二の三友である。暗欝な思い出の多い人たちだったが長く縁が断れなかったことを思えば、これも何か人間の因縁尽くなのであろう。しかし、この三人の友も詩村を最後に今はすでに鬼籍に入ってしまったのである。
 詩村が死去した日の朝、虫が知らしたとでもいうか、珍らしく躰の空いていた日曜だったので、私はS君とともに中央病院に車を飛ばした。再発してから三度目に見る病床の姿だったが、一見して私は、ああもう詩村君ともこれがお別れだなと思った。枕許に近づけた私の顔が判ったのか、彼は二、三度大きく見ひらいた眼をぎょろつかせたが、言葉には出ず、カマキリのように痩せ衰えた手首を持ち上げた。私はその細い手首をしっかり握りしめながら、こらえきれず、不覚のに眼をとじた。哀れというか、無惨というか、人間の業の深さに戦くような気持だった。一人の肉親にも看まもられず、幽明境いを彷徨している彼の姿を見ていることは耐えられない、荒寥たる気持だった。私は小一時間ほど為すこともなく彼の枕許に腰かけていたのであるが、その間、小止みもなく彼の口のなかの粘りをガーゼで丹念に拭きとったり、氷水でうがいをさせたり、まるで肉親の身のように行届いた世話をする看護婦さんの行為に、ほっとした明るさを心に感じ、ぼつぼつ近況を訊いてみると、毎日親切な友人たちがきて何かと心をつかってくれているということだった。それに又、長らく所在不明だった妹さんが姫路に居る事が判り、先日その人も泊りがけで看病もし、つもる話のかずかずも出来たと聞いて、ほんとうによかったと思った。業の深い人であったかも知れぬが、大ぜいの友人から親切にされ、病院でこんなにも大切にして貰っている彼は幸せだと思った。
 私は詩村君の安らかな眠りを心に祈りながら病院を出たが、坂を下りながら冗談めいて「僕と最後の別れをしたから、詩村君も今夜あたり成仏するよ」と、S君にいったが、果して夜半に電話で訃報を耳にしたのである。
 私にとって一番大事なことを書こうかと思ったが、やはり今は書くべきではないと決め、彼は皆から愛され、大切にされて、幸せな往生を遂げたのだと、その冥福を心から祈るばかりである。
 (三五・一〇月記)
 付記 この本は北野伸子さんの孝心と、私たちの友情によって出来たのであるが、追悼文をいただいた十数氏の原稿は収録することが出来なかったことをお詫びする。いずれ「半どん」誌上にでも発表させていただこうと思っているので御諒承たまわりたい。

(及川英雄「合掌」より) 

 
目次

・風と雑草

  • 言葉と詩
  • 風流のはなし
  • 独りも愉し
  • 独り善哉
  • 万歴赤絵
  • 知事と落書と蛸燒き
  • 色めがね
  • 市内電車
  • コトバの魔術と詩
  • 雨の中の一本の傘
  • 信ずべきもの
  • 瓜二つの話
  • 芸妓という名の労働者
  • 反省
  • 銭湯新話
  • 酵わでもの記
  • おんなの季節
  • 蛇と狐の縁台噺
  • 流行歌
  • 昔と今と
  • 消夏苦情帳
  • テント・ストリップ
  • 文化人スケッチ
  • 師弟について
  • 醉友粋交伝
  • 暗い驟雨と私
  • 無声映画華やかなりし頃
  • ダイジェスト的文化
  • 宗教と文学
  • 浮浪者狩り
  • 家島行
  • 室津から赤穂御崎へ
  • 六甲山礼賛

・探偵雑文

  • 探偵小説ブームについて
  • 探偵小説礼賛
  • 苦難のあとのブーム
  • 探偵小説あれこれ
  • 蒐集癖の夢
  • ロマンスの鐘は鳴る
  • 偽名自動車強盗事件
  • 日曜バス
  • メリー・ゴーランド
  • 大いなる眠り
  • 検事微笑す

あとがき 合掌(及川英雄)

 

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