奈落転々 野田真吉詩集

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 1978年1月、創樹社から刊行された野田真吉(1916~1993)の第1詩集。題字は高橋新吉、装幀・装画は山下菊二。

 

 この詩集の題名を、はじめ『野糞』にしようと私は思っていた。詩でも映画でも、あれこれと理クッをつけてカッコをつけるが所詮、自分のひった糞のようなものにすぎないと、私はつねづね思っている。まあ、しいていうなら、私だけの私の生きているしるしにすぎない。野糞といえば、蕪村の作だったか「大徳が糞ひりおわす枯野かな」という私の好きな一句がある。だが私の糞は大徳のそれではなく、凡俗無明の徒のひりそこないの野糞である。はかなく、みっともないしるしである。
 そのような『意味』から野糞という題名にしようと思っていたのである。ところが、この何とも、いわゆる詩的でない、臭い、おぞましい趣きが一部の友人から言外のヒンシュクをかった。ヒンシュクをうけた私はわが意をえたりと思い、同時にもっともなことだとも思った。そこで、ありあわせの材料をつかい、時流などとんとおかまいなしの私の手料理に招待する客人のことを思い、私は第一部の副題にしていた『奈落転々』を詩集の題名に変えることにした。前置きはこれくらいにしよう。さて、私が詩のようなものを意識的に書きはじめてから四十年近くになるだろう。でも、どれほども書いていない。書いても破りすてたり、未定稿のまま散逸してしまって、今手もとに残っているのは数えるほどしかない。とくに戦前のものは兵隊にゆく時、整理処分してしまった。かろうじて残っているのはたまたま雑誌などにのせたものである。
 私は詩でも映画でも作ってしまうと自分のもので自分のものでない自分の亡骸をみせつけられるむなしい思いにかられる。人間の営為はもともとそのようなものであろう。
 私は詩や映画を作っている過程の緊張感のために作りつづけているように思う。だから、作品の年表といっても大略の年代しか誌すことができない。それに時々以前に書いた詩の原稿を思い出すままにとりだして筆をいれたりするが積極的に発表しようと心掛けないから、そのまま机の引出しにしまって忘れてしまう。そんなことだからいつ完成したのか、ハッキリと作詩年度をいえない。それでいいのだと私は思っている。
 この詩集にのせた作品も年次的に編んだものではない。手もとに残っている原稿のなかから私の好みにしたがって二十数篇を選び、配列したにすぎない。
 戦前に作ったものは主として一九三〇年ごろから三六、七年までのものである。私の二十歳前後の作品である。文学青年の例にもれずボオドレエル、ランボオからシュールレアリズムの詩に関心をもちながら「半仙戯」の同人だった高橋新吉中原中也、石川道雄、高森文夫たちの影響をうけていたころのものである。「無題」「供物」は『半仙戯』に、「幻」「今日は愉しき祝祭なり」は『蠟人形』に発表した。これらの作品は私が兵隊にとられた後、母がまとめてくれていたノート類の箱にまぎれこんでいたものである。
 三七年以降作品がないのは同年東宝映画撮影所に入社したため、詩作などやっているヒマがないほど忙しく働かねばならなかったこと、と同時にきらいでもなかった映画表現の魅力に惹れてきたことである。とくにその記録性と幻想性に。
 ところが、三九年、第二乙種補充兵役だった私も兵隊にひっぱりだされた。出征する時、私の死は時間の問題になっていると思った。私は名もない兵隊の一人として死のうと思った。うじ虫同然にふみつぶされて死ぬだろう自分に徹しようと思い、一切筆を断つことにした。戦中の詩のないのはそのためである。
 四五年、敗戦をむかえ、幸い命拾いして、私は戦地から帰ることができた。そこには戦後の荒廃と混乱がまちうけていた。ストライキの渦は私が復職した東宝撮影所をも激しく巻きこんでいた。私は労組書記局要員になった。あのアメリカ占領軍によって弾圧された四八年のストライキまで労組活動をつづけた。そのころ、日本共産党にはいった。ストライキ妥結後、私はフリーになり、映画と正面から取り組みなおそうと思った。だが、新しい戦後映画がうまれるには古い映画界の壁は厚かった。私は『映画批評』や『記録映画』などの誌上で批評活動をはじめることで状況打開の緒口をえようとした。一方、同じ戦後芸術運動の志向をもった「現代詩の会」「記録芸術の会」などにも私は参加した。
 五〇年代後半から六○年代初めのころである。そのなかで、長谷川竜生や黒田喜夫との接触は私の遠ざかりつつあった詩心をよびもどしてくれた。『現代詩』にのせた「爆破計画」(六一年)、私の映画作品の序詩「まだ見ぬ街」(六四年)、「今朝も私は竹の長い箸を削る」(社会新報、七四年八月七日号)はそうした当時の兆候といえよう。その間、六〇年には思想的退廃をきわめた日本共産党から離れた。私は「映像芸術の会」を中心に戦後の新しい映画運動の発展に全力を投入した。作詩から遠ざかった。
 七四年、生まれてから病気の病の字もしらない健康に恵まれていた私が突然胃せんこうになり、手術二回、入院三ヵ月という大病にかかり、九死に一生をえた。入院期間中は読書とラジオをたのしむしか術がなかった。それも倦きてきたので、かねがねまとめようと思っていた『閑吟集』と『花伝書』の論稿にとりかかりながら詩をかきはじめた。第一部のほとんどの作品は七四年以降のものである。
 現在、私は佐々木基一たちと「点の会」という文学や映画などを研究しあう小さなサークルをつくっている。このところ、私が詩をつくる気になっているのは「点の会」の刺激にあずかっているところがある。
(「作詩年表にかえるの記」より) 

 


目次

序 高橋新吉

第一部 奈落転々 戦後篇

  • 黄色い花
  • 風狂 数かぞえ
  • 夜の街にて
  • 今朝も私は竹の長い箸を削る――老女の繰り言、夏の歌
  • まだ見ぬ街
  • 挽歌
  • 爆破計画
  • 手術
  • 空びんの唄
  • 異夢
  • 夜の炎
  • 名前の思い出せない女
  • きんもくせい妄想
  • 朝顔の中の闇の彼方
  • 流木を蹴る――土佐の浜辺にて
  • 飛ぶ男
  • 構図
  •  A 足指の会話
  •  B ゴーストタウンの詩神の末裔たち
  •  C 戯れ唄 極楽トンボ
  •  D 蟻のユーモアに感謝する
  •  E 谷間の伝説
  •  F 空白の地図

第二部 同床異夢 戦前篇

  • 幻――ある猟人の歌へる
  • 無題――古調心象抒景
  • 供物
  • 睡むる金魚
  • 今日は偷しき祝祭なり

跋 佐々木基一
跋 長谷川龍生
作詩年表にかえるの記 真吉


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