2020年12月、土曜美術社出版販売から刊行された鈴木正樹(1948~)による堀内幸枝(1920~)の評伝。装幀は司修。
戦後の混乱が終わり、高度成長が始まろうとする時代、農村や山村を表現する詩人は少なくはなかった。しかし、堀内の『村のアルバム』は若い感受性とみずみずしさで群を抜いていた。なにより表現の技術が洗練されている。反響は大きかった。この詩集以後、堀内幸枝と言えば「山の少女」というイメージがついて回るようになった。だが、本当は都会の詩人なのだ。彼女の作品をたどっていくと、敗戦という価値観の逆転を、抒情詩人がどのように受け止め、どのように乗り越えていったのか見ることが出来る。堀内幸枝はローカルな詩人ではなく、戦後詩の流れの中に活動していた。いまだに、抒情詩と聞くと反発を感じたり、一段低く見る詩人がいないわけではないが、抒情こそ詩の本道なのだ。堀内幸枝は今後、いろいろな形で取り上げられてしかるべき詩人のひとりだ。引用の作品や文は、土曜美術社・日本現代詩文庫35『堀内幸枝詩集』を利用。『村のたんぽぽ』以後は沖積社の『堀内幸枝全詩集』を利用させていただいた。堀内幸枝の個人詩誌「葡萄」の編集を手伝いながら書きためた詩集の評論を、詩集が出版された順に並べ、堀内幸枝の人生をたどろうとした。あくまでも詩作品から見える堀内幸枝だ。しかし、堀内には歌曲の作詞家という一面もあり、この方面での足跡は僕の守備範囲ではないので追うことが出来なかった。また、田中冬二との関わりや影響についても触れていない。堀内幸枝の全体像は本書で論じた分野の外にも広がっている。堀内幸枝は今年の九月で百歳の誕生日を迎える。本書がこれまでのイメージを越え、堀内幸枝を多角的に論じていく契機となることを願う。
(「あとがき」より)
目次
一、詩集論
- 「山の少女」というイメージの成立――その発端
- 抒情が否定された時代の抒情詩人――詩集『紫の時間』ノート
- 娘からの脱皮――詩集『不思議な時計』ノート
- 山の少女は抒情だけを見ていたのか――詩集『村のアルバム』ノート
- 喪失感と成熟――詩集『夕焼が落ちてこようと』ノート
- 遠い青春と作品世界の再構築――詩集『夢の人に』ノート
- 詩人は古里に何を見つけたか――詩集『村のたんぽぽ』ノート
- 人生の九月――詩集『九月の日差し』ノート
二、詩誌「葡萄」
- 「葡萄」の装丁
- 僕にとっての「葡萄」の編集
- 「葡萄」編集あれこれ
- 「葡萄」終刊をめぐって
堀内幸枝略歴
あとがき
感謝とお祝い 谷口典子
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