1992年1月、近代文藝社から刊行された園靖之助(1928~)の詩集。カットは園房江。日本詩人選集第6集。刊行時の著者の住所は江東区新大橋。
百部出したら大方返ってくる返本の始末を考えると、折角のお誘いにも気の進まないものがあった。でも、通夜の晩に一合酒と砂糖の他に、この一冊を差し上げられたら、紙の無駄使いにならないのではと、われ乍らの思いつきであった。
しかし、詩や句の本がどうして読まれることが少ないのだろう。大半の責は書く側にあることに違いないけれど、もし、この本がまだ知らない誰かに、ほんの少しでも愛されたとしたら、嬉しい。
この年になって、感性のなんであるかが、ほんの少し解りかけてきたところで、これからどうやって育てていこうかと思うようになった矢先だし、できの悪い分身を仰々しく並べたててみることは、なんとも気恥ずかしいことである。日暮れて道遠しとは、よく言ったもので、ぼくの終焉までの月日は、どう贔屓目にみても、ありあまったものではない。これだけのものですがと、いま差し出すのが、本当はいいのかもしれない。
詩と句を採り上げたのは、別に他意のあったことではない。たしかに、句は句であって詩ではない。しかし、詩も句もその命に流れているのは、ポエジーであることに間違いはないだろう。それは「嫉妬が生きる力」である以上に、その源にかかわっている。言ってみれば、ぼくにとって二つは同質なものなのである。音の世界も、繪の世界もその命がそうであるように、文字という素材で、ポエジーを表現したかったまでのことなのである。
昔、中國に本を焚きつくした人がいた。いつか、万巻の書物を灰にして下さる方も出てこないとも限るまい。綺麗さっぱりとしたいのは誰だって希うことだけど、ぼくやぼくたちは、こうして歩んでゆくことなのだろう。
(「あとがき」より)