昭和十二年四月終りに私は満州に旅行した。大連、奉天を経て奥地哈爾濱に入り哈爾濱には一週間滞在した。旅行ぎらずな私の生涯でもつとも長期長途に渉る旅行で、帰来『大陸の琴』といふ長篇小説を書いて、はじめて見た異国の風俗光景を叙して朝日新聞に連載した。その旅行中奉天でも、大連でも、哈爾濱の街々でも、すぐ口にのぼる気嫌の好いうたのたぐひは、いたるところで詩のかたちをもつて、微熱のほとぼりのようなものを私にあたへた。当時はもう若くない私は五十歳に近く、詩の微熱におかされる筈がないのに、松花江や哈爾濱の街々を歩きながら、うきうきした眼で最後に鴨緑江の夜半の濁り波を見て帰京した。そして綴るともなく一詩巻を編んで見たのが、本『哈爾濱詩集』なのである。この旅に出向かなかつたら哈爾濱詩集の文業もなく、私は日本のほかの土を踏まずに終つたのである。
私はこの哈爾濱詩集を一冊の書物として発售したいのぞみを永い間持つてゐたが、今日まで二十年間その機会がなかつた。書物は出したい時に出ないと気抜けのするものだが、私は哈爾濱詩集の原稿に折々眼をやつて、あれはまだあのままで詩集にならないがと愛惜するがごとく呟いて見て、そして少し不機嫌になり、もうどうでもよいと虚しく打ちやる気持であつた。その打つちやる気持はなかなかに晴ればれしくなく、欝勃は遂に今日に及んだものである。
日本放送協会から先年人が来て、詩の朗読を録音したいといひ、いやがる私に詩の朗読をさせた。その折、私は集中の四行詩の清朝第二代の詩をいさましく敢て朗読した。放送局はこの録音を私の死後例のラヂオで一二分間さし入れて、これはこの不倖な詩人の生きてゐた間の声だというふうに、縁もない方々に紹介してお聴かせするつもりなのであらう。私もその気で朗読したが、それらの詩は悉く朗詠調であり好んで語韻を踏んで作成されてゐた。旅中の亢奮状態がいまだにいみじくも脈を打つてゐるのを、私は、折あらば旅行だけは若い時にして置くべきものだと回顧したものである。
(「序文竝びに解説」より)
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序文竝びに解説 著者