1977年7月、Laの会から刊行された香川弘夫(1933~1994)の第2詩集。写真装幀は柵山龍司。第18回晩翠賞受賞作品。
三二年の年から詩らしいものを書き始めて、いつのまにか二〇年も経ってしまっていた。
三五年に出されたガリ版詩集「白い蛙のいる室」はへ来たるべき輝かしい活版詩集の<<予行演習>>の心づもりであったが、仲々その活版詩集刊行の夢も果せずに十年過ぎた。
四六年、当時東京の母岩社にいたワシオ・トシヒコ氏から電話をいただき、詩集「猫の墓」が出されたが、これもいわば出版社側の意図で進められたもので作品の数も限定されたのであった。
今、その「猫の墓」の時ふるい落とされた十余篇と、昨年からのものを加えて、二〇年目でようやく、私の初心の夢であった自主的活版詩集の出版を果すことにした。
二〇年、私のぼつりぼつり書いて来たものは一体何であったのか。結局私はただ他愛ない繰り言を、一心にかきくどいて来ただけかも知れない。北辺の土俗的司祭であるイタコと呼ばれる盲目の婦の「くどき」に似て――。
イタコの、いわゆる口寄せやオシラ祀りや占いなどの時発っせられる聞きとり難い口説の、まさに身をよじらせて掻きくどくさまから来ている「くどき」は、人によっては全く不分明な価値のないタワ言となるし、しかしまた聞く者によっては人間を限りない深みに引きずり込んで止まない、哀怨な唄となる。
この本を読んで読者は私の「語り口」からせめてタワ言としてではなく、呪術的雰囲気の方を多少でも感じ取っていただければ、幸いと思うのだが――。
題名にした津軽街道とは盛岡は不来方から発し、滝沢の分れから山間部に入り、一本木、寺田、荒屋、田山を経て津軽へ抜けた旧い裏街道の名称である。その中間の荒屋は私の住む地であり、しかもその道はわが家の屋敷のすぐ傍を通っていたのであった。私の血縁は津軽から下って来たという証しは何もないのに、私が時おり津軽的なものに血の澱みを感ずるのは、この津軽街道のせいではないかと考えたりする。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ ウパタ村村長の挿話
ウパタ村村長の挿話
花物語
弔い覚書
Ⅱ 三万回くり返す啞の男の話
三万回くり返す啞の男の話
夜の旅行記
苦力譚
冬の兄弟
Ⅲ わが津軽街道
冬の和讃抄
雪の花火
わが津軽街道
夢は枯野を
きさらぎの女
鎮魂歌
Ⅳ 養鶏論
十二月のうた
養鶏論
飼育
あとがき