1965年12月、詩誌『陽炎』発行所から刊行された蔵原伸二郎(1899~1965)の遺稿詩集。第16回読売文学賞受賞作品の定本。附録栞は「蔵原伸二郎との交遊」(青柳瑞穂)、「まことの詩について」(浅野晃)、「日本的回帰貫いた蔵原」(安東次男)、「蔵原伸二郎の詩集」(江藤淳)、「詩の成長について」(浦地歓一)、「東洋のシュペルヴィエール」(北川冬彦)、「岩魚」(草野心平)、「あの頃のことなど」(神保光太郎)、「盆の月」(中谷孝雄)、「岩魚」(深尾須磨子)、「蔵原さんの思い出」(保田與重郎)、「父と私」(蔵原惟光)。
はからずも権威ある読売文学賞を受賞して驚くとともに、たいへんうれしく思っています。
もともと詩集『岩魚』(初版)は、飯能在住二十年を祝ってくれる意味で、飯能市の若い詩人たちが計画出版したものであります。だから、受賞などということは夢にも考えなかっただけに、ほんとうにうれしく思いましたが、全体の配列とか、バランスとかにあまりこだわらないで、なにげなく二十年も前の詩なども入れてしまったことなど、受賞してみると、この不体裁をなんとも残念に思っています。これはまったく私自身の落ち度で、もし『岩魚』が再版される機会があれば、その部分は除いて出版したいと思っております。
さて、もともと私のことを、世間では東洋的な詩人だと称していますが、決してそれに不服は申し上げませんが、私は特に東洋的な意識をもって書いて来たのではなく、ただ自然な状態において、東洋的であり、日本的であることはきわめて当然なことであると思います。たとえば、ロダンやセザンヌがフランスの自然を愛し、また同時にフランス人であったのと同じことではないかと思います。私は、これまでできる限りヨーロッパの詩論や詩も研究して来たつもりであります。と同時に東洋には、以心伝心的な東洋独特の詩論がやはり存在し、その一面を代表するものは禅の考え方ではないかと思います。これは、ヨーロッパの詩論とある意味において対立した考え方かもしれません。私は生涯の念願として、この二つの東西の詩論をなんらかの形でまとめたいと考えながら、工夫して来たつもりですが、それにもかかわらずご覧のような出来ばえで、誠にお恥ずかしい次第であります。
ただいま私は、入院中で絶対安静を命ぜられておりますので、晴れの受賞式に参加できないことは誠に遺憾の次第であります。(「自序にかえて 蔵原伸二郎」より)
目次
序 河盛 好蔵
自序にかえて 蔵原仲二郎
狐
- めぎつね
- 黄昏いろのきつね
- おぎつね
- きつね
- 老いたきつね
- 野狐(やこ)
岩魚
- 岩魚
- 鮭
- すずめ
- 落日
- 西瓜畑
- 遠い友よ
- 石の思想
岸辺
- 岸辺
- 不在の人
- 昨日の映像
- 故郷
- 壺
- 鴉
- 暗号
五月の雉
- 五月の雉
- ひよどり
- 分校に行く道
- 孫娘とふたりで
- 動物園にて
- 風の中で歌う空っぽの子守唄
- 系図
卵のかげ
- 卵のかげ
- 生命のかげ
- 晩秋
- 時間は消える
- 雪
- しずかな秋
拾遺
- 秋
- 足跡
「蔵原伸二郎様」棟方志功
詩集『定本岩魚』覚え書き
年譜 河盛好蔵編
自序にかえて 読売文学賞受賞の言葉 蔵原伸二郎