1965年11月、晶文社から刊行された小沢信男(1927~)の第1著作集。装幀は平野甲賀(1938~)。
これは私の第一創作集です。
作品の配列は、近作二篇で旧作九篇をサソドヰッチにしました。
書いた順にならべると、次の通りになります。
「新東京感傷散歩」(江古田文学・52年8月号)
私かはじめて散文で書いた作品で、これでも小説なら小説もワルくはないな、と思いました。当時血のメーデー事件、早稲田大学に警官隊乱入事件などありましたが、私はもっぱら恋愛中でした。
「喪骨記」(新日本文学・53月4月号)
長篇の第一部第一章のつもりでしたが、これだけ書いたらくたびれました。私は肺活量が足りないので、長距離にはむかないな、と思いました。
「盧生都にゆく」(新日本文学・58年5月号)
盧生が都にいってからのことも書かねば小説ではないよ、と云われ、なるほど小説は根気のいる仕事たんだな、と思ったことを覚えています。
「徽章と靴」(現代芸術・58年 創刑号)
記録風な小説のつもりで書きましたが、鶴見俊輔さんが『日本の百年』(筑摩書房刊)という本の中に記録として引用して下さったので、小説風な記録かもしれません。どちらでもいいでしょう。
「体の中のオルゴオル」(近代文学60年7月号)
童話風な小説のつもりで書きましたが、しょせん宮沢賢治童話の亜流だったようです。なお、当時スチュワーデス殺し事件というのがありました。カンケイないかな。
「畜仙譚」(新日本文学・61年2月号)
これを発表した昭和36年は、ウシ年です。干支(えと)とか年まわりとかは、敗戦を境いに吹っ飛んだと思っていたら、そっくり健在なので、ほとほと感服してこれを書きました。
「さなだ虫」(現代芸術・61年8月号)
当時、ショートーショートというのがハヤっていたので、オレもひとつ、と思って書きました。
「七夕日記」(新日本文学・61年10月号)
小説風な記録を、日記スタイルで書いたわけです。
「碑文字」(新日本文学・63年1月号)
当時、S・Fというのがハヤっていたので、オレもひとつ、と思って書きました。
「わが忘れなば」(新日本文学・65年1月号)
これは手紙スタイル。なお、作中の鮎沢少年は実名のモデルがありまして、彼の句作品を、作中の「牧野次郎」は一つも覚えていないというが、作者の私は幸いに古いノートから二三発見しましたので、ここに記して十六年前の約束の一部を果たしたいと思います。秋たかし少女蹴上ぐる靴の行方 鮎沢杜詩男
癒えたけれ行く雁の背に月光(ひかり)の輪
明日は逝く妹なり花火見せんとす
「もしもし」(新日本文学・65年5月号)
これは電話スタイル。日記と手紙と電話のほか、私のようなふつうの人が持ちあわせる表現形式は電報と、それから座談と独語と寝言ぐらいしか残っていないような気がしています。
以上のほかにも作品がないではないが、この十一篇を書くのに十四年かかっております。十四ヶ月の語植ではないので、これはつまり私が月日をゼイタクに使ったのだと思うのですが、あいにく「ゼイタクは敵だ」というスローガンをきいて育ったもので、なんとなくうしろめたい。はずかしい。
ともあれ、このスロー・ペースに気長につきあってくださった新日本文学会の方々、そしてこの本を作ってくださる晶文社の方々が、じつにありかたく思われます。それから活字を拾ってならべて下さった方々や、製本屋さんや、小売屋さんや、なにやかや、本来なら菓子折もってずうっと廻りたい気分ですが、とても廻りきれないので一切省略。
終りに、かさねて申しますが、これは私の第一創作集です。というのはつまり、第二、第三と続くぞ、という意志の表明でありまして、われながらいさましい。私の。ヘースでゆくならば、これからもよほど長生きをせねばなりますまい。(「あとがき」より)
目次
- わが忘れなば
- 徽章と靴―東京落日譜―
- 新東京感傷散歩
- 畜仙譚
- 盧生都にゆく
- さなだ虫
- 碑文字
- 体の中のオルゴオル―オルゴオル太郎の生涯―
- 喪骨記
- 七夕日記
- もしもし
あとがき