戦争を生きた詩人たち1 斎藤庸一

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 1997年12月、沖積舎から刊行された斎藤庸一の評論集。装幀は戸田ヒロコ。

 

たまたまそのときそこに
居合わせたというだけのことで
ひとりの人間が死ぬ
ふたりの人間が死ぬ
いや それは
ひとりやふたりのことでは
ないかも知れぬ
黒田三郎「日常茶飯」部分)

 戦争をくぐりぬけてきた私たちの年代は、多かれ少なかれ「死と死のあいだ」を命からがら泳いできた。多くの友人を戦争で失ってしまった。生き残ったことはひとつの偶然に過ぎなかった。賽の目のひとつ、一本の籤が私たちの生と死を分けた。どの列に並ぶのかは巨きな権力の命ずるままに従ったが、ひとつの列は大陸の山野に屍をさらし、ひとつの列は海底の藻屑となった。生き残った私たちの夜は怨恨の声に満ち、血まみれの亡霊が眠りの中へ忍びこんできた。私たちは図らずも昭和二十年八月十五日を生きていて、暗い軍隊という檻から解放されたに過ぎなかった。
 戦争は人を殺しあうことで、国家の名や天皇の名や民族の名のもとに、まるで殺戮が大義名分のように教えこまれた。忠君愛国とか東洋平和とか義勇奉公とかの観念で武装させられた。私たちは犯罪者ではなかったのに、私たちの参加した集団は巨きな犯罪集団であった。私たちは逃げることも匿れることもないのに、戦後永い間は後ろめたい逃亡者のように俯いて暮してきた。
(一九八九年九月『銀花』79号「黒い大きな蝙蝠傘=黒田三郎」斎藤庸一より)

 評伝『詩に架ける橋』が五月書房から出版されたのは昭和四十七年(一九七二)九月であった。これは昭和初期のいわゆる近代詩人である山村暮鳥、三野混沌、草野心平尾形亀之助、石川善助、坂本遼、淵上毛銭、深瀬基寛の評伝集であった。これに猪狩満直、岡本弥太を加えて文化出版局の「銀花」に連載を始めたのは昭和四十九年六月で、昭和五十三年九月まで続いた。これが後に評伝『詩人遍歴』として地球社から出版されたのである。
 この本を読まれた三好豊一郎氏が、戦争を生きぬいた戦後の詩人の評伝を書くようにと手紙に書いてきて、君ならやれるよと励まして下さった。しかしそれは途方もない大きな問題で、とても私にはやれそうもないと思った。太平洋戦争の戦域が広範囲であり、無名の一兵隊や学徒出陣兵として、又は原爆や空襲で戦火に追われて戦時下を生きぬき、しかも戦後の詩史に名を連ねた詩人の仕事に、戦争がいかに大きな影をおとしたか、と考えると、闇夜を手さぐりで歩いてゆく思いであった。しかしこの仕事は未開拓でいまだに誰もやっていない。終戦までに二年、戦後一年の軍隊経験がある私の世代であるからこそ、戦中と戦後を展望できるのではないか。君自身の問題として、戦争を書かなければ君の評論に終わりはこないよ、といわれた三好さんの言葉の意味が、次第に見えはじめてきたのである。
 それからは太平洋戦争史の資料をせっせと集めた。と同時に詩人の戦争経験とその作品の蒐集に努めた。「銀花」に書いた会田綱雄と山之口獏はそのために「詩人遍歴」からはずしておいた。準備が整わないうちにまず一九八九年三月の「銀花」七十七号に「火野葦平」を書いて連載が始められた。毎号執筆をすすめられたが、資料の調査や詩人に会っての取材を考慮して、春と秋の隔号執筆の許可を戴いた。一人の詩人の戦争経験を詩作品とエッセイによって知り、本人の談話やご遺族との会話によって近づき、同時にその戦域の記録をたどること。そうすればやがては太平洋戦争の広汎な全体像にも迫れるという方法をとった。
 出版の時のためにとっておいた会田綱雄は、中国で南京政府時代の宣撫工作に参加、戦争による同胞の死体を食べた蟹を中国人は決して食べなかったことから、名作「伝説」という一篇の詩を二十年かけて書いたのである。
 山之口獏は沖縄の詩人だが、昭和初期に日本へ帰化、沖縄からの逃亡者の位置から、太平洋戦争で最も悲惨な運命を辿った故郷沖縄を望見するという、苦いブラックユーモアの世界であった。
 火野葦平は中国戦線で「麦と兵隊」を執筆、小林秀雄が戦場で芥川賞を授与したという有名な作品だが、ここでは詩人としての火野葦平の戦争による栄光と戦後の挫折を描いた。
 黒田三郎は南方のインドネシア軍の捕虜となった兵隊の一人であり、それが戦後の彼に暗い影となってつきまとったが、彼は遂にその期間のことを語らなかった。はては一種の自殺行為を思わせるほど自虐的に酒に溺れた。詩のなかにだけナイーブな傷つきやすい感性の世界を作りあげ、そこから不安と恐怖の戦後の時代を生きる人々に、優しい思いやりの詩を書きつづけて死んでいった。
 原民喜、広島の夏の花とはもちろん原爆のことだが、この詩人の生涯にもあてはまる。「たまたまそのときそこに、居合わせたというだけのことで」二十万人を瞬時に焼き殺し、三万人が重軽傷を負った。昭和二十年一月まで東京にいた民喜は、もしかすると神が意図して広島に派遣し、その澄んだ眼で破壊と殺戮の惨状を記録させたのかと思うほど、たまたま帰郷していた八月二十一日の朝原爆を被災して生き残り、小説「夏の花」や詩集「原爆小景」の名作を書いた。そして「人間が人間を殺戮することに対する抗議」の無力さに絶えきれず、昭和二十六年三月、四十六歳で線路上に横たわり自殺する。
 石原吉郎、敗戦の六日前に突如としてソ満国境から百五十万に及ぶソ連軍が侵攻し、無差別の殺戮のあげく六十万人の日本人を捕虜としてシベリヤに抑留した。その中に石原吉郎という一人の詩人が含まれていた。二十七歳から三十九歳までの十三年間を生きのびて帰国する。詩集「サンチョパンサの帰郷」によりH氏賞受賞、続々と詩とエッセイを書きつづけたが、それが脱出した人間が再び地獄へ戻る作業であり、絶えきれずに死んでゆく。
 木原孝一は硫黄島の守備隊の中にいた二十三歳の軍属技師だった。二万三千人の将兵が玉砕した悲劇の島から、奇跡的に助かった一人の詩人は、長編詩「無名戦士」の詩劇の完成を目ざしたが、戦争による残虐な殺戮は一人の人間の能力では遂に表現に至らなかった。彼の目撃した輸送船沈没の大量死、硫黄島の山なす屍、そして東京空襲による大量殺戮、人間の限界を越えた経験のイメージは、生き残った者の日常に昼夜の別なく襲いかかったのであろう。

きみの死を目撃したものは誰もいない
味方の兵士にも 敵の兵士にも
知られずに
きみは 死んだ
きみを埋葬したのは
潮の満ち干と
硬直したきみ自身のふたつの手だ
(木原孝一「遠い国」より)

『戦争を生きた詩人たち』の第一集には、以上の七人を収録した。
 第二集には、伊藤桂一、丸山豊、宗左近石垣りん川崎洋清岡卓行、石川逸子の七人を収録する予定である。
(「後記」より)

 

 

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