露ある道以後 相澤俊子句集

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 1990年11月、不識書院から刊行された相澤俊子の第2歌集。遺稿集。附録栞は「相澤俊子を偲ぶ―弔辞」(清水以譽子)、「父のこと母のこと」(相澤幹雄)。

 

 この歌集は、昭和四十一年十一月出版の歌集『露ある道』につづく相澤俊子の第二歌集にして遺歌集です。
 相澤俊子(本名・喜美)は平成二年一月二十三日午後一時、甲府市伊勢町の内田外科病院で心不全のため永眠しました。明治三十年五月二十二日生まれ、享年九十二歳でした。
 俊子は三十六歳で夫・相澤卯吉に死別、甲府市太田町に七代にわたって継承されてきた亡夫の家業を守りながら、多くの子女を養育する苦難の生を踏み出しました。寡婦となって一年後の昭和八年、アララギ短歌会に入会し、斎藤茂吉先生の選、のちに土屋文明先生の選を受けて、営々作歌に励んできた経緯は、『露ある道』に寄せられた甲府アララギ会・美知思波主宰伊藤生更先生の序文および俊子の巻末記に詳かです。歌集上梓後も「アララギ」への毎月の出詠を欠かさず、アララギの先生方、山梨アララギ会の歌人たち、甲府の女流歌人のグループ「ミネルヴァ会」のメンバーその他、数多の知己、友人との文通に、歌会に、吟行に、歌材を求めての旅行にと、短歌を通じての交りを深めてまいりました。昭和五十三年、同五十四年に講談社より刊行された『昭和万葉集』第四巻、第五巻に、

みなしごの二人相寄り家持ちて一年ならず兵に召されし
馬鈴薯の百五十俵植付くるとふ開墾地の地図に朱の線引く
春売らむ種の仕入を思ひをり昼の厨に箸をむきつつ
一月余り跡絶え軍事便今宵来ぬいたく痩せたる写真添へあり

 の四首が収録されましたが、これらは昭和十四年、十六年の作で『露ある道』の掲載歌でもあります。
 前歌集上梓の後、二十余年の間には俊子の身辺において人る土地も世間の習いというものち様々の転変を生じ、長い歳月にわたって親しんできたのが、一つまた一つと変容、亡失してゆき、折にふれて喚び起こされる遠い過去への感懐甚だ切実です。それらにまつわる事情は、斎藤茂吉土屋文明両先生に師事した現実直視の歌風によって、おのずと窺い知ることのできるものとなっておりますが、ここではその細部に触れることは慎みます。ただ、社会の表に立つことのなかった一人の女性が毅然と、感情豊かにその人生に立ち向かった同じ態度で、おのれが老と病と死に、時には悲傷と痛恨に心を破りつつ、誤魔化すことなく直面した軌跡として、単に一家族にまつわる嘆きではないと信じます。
 俊子は、強烈な個性の持ち主だった亡夫卯吉の自立自存の精神を受けつぎ、生来の気性もあって、人のために働いてる人に厄介をかけるのを最も厭うところとし、高齢のため難聴となり、次第に行動が自分の意のままにならなくなってゆくのを、大きな悩みとしていました。脳梗塞のため一時片麻痺に陥りましたが、昏睡からさめたその日から作歌を試み、おのが思考力、情動、言語に障害がないことを確認、自らのプランに基いてリハビリテーションを実行して機能回復を遂げました。しかし、やがて僅かなことでの骨折、筋力の衰弱を繰り返して次第に立居が不自由となり、最後の一年半は甲府和田町特別養護老人ホーム尚古園で介護を受けることを余儀なくされました。
 平成元年九月六日、俊子は胃の幽門部の癌のために吐血、病名は知らさずに山梨県立中央病院に入院加療させましたが、病人扱いされて拘束されるのを嫌った俊子の強い希望で翌月には尚古園にもどりました。たえず「アララギ」、「山梨歌人」、辞書、地図帳、二、三の歌集の類を可動式の棚の上に置き、枕許の手の届くところに作歌手帳と筆記具と度の強い書見用眼鏡の入ったハンドバックやら、投稿用の原稿用紙を綴じる千枚通しや水引きや小鋏などを入れた信玄袋やらが揃っていないと気がすまず、ベッドの上の小天地にたこもって衰老の苦に抗している感がありました。
 県立中央病院退院後は、自分で原稿用紙のマス目に文字を書く力を失い、遺詠となった「アララギ」平成二年三月号掲載の一首までの三ヵ月間、平成元年十月から十二月末日までの投稿は、子の一人に口述して書き板に書きとらせ、浄書させて点検したのです。十首連作の作法を守り、一時間半から二時間を越す作業で疲れ果てておりましたが、アララギ発行所宛ての封筒に収めるのを見届けると、「ありがとう」と子に向かって合掌し、顔を桜色に上気させて少女のようにういういしく微笑みました。
 俊子は昭和五十九年秋、八十八歳の誕生日を半年後にひかえて、長子幹雄が一族を招いて催した米寿の宴の前後から、歌稿の整理を始めています。そして自分の死後、子供たちが協力して遺歌集として上梓してくれるようそれとなく意志表示し、ある者にはそのイニシャチーブをとることを望み、ある者には短歌会との連絡事務を委ね、ある者には資金として老齢年金の貯えを預け、ある者には原稿を托すなど、それぞれの立場、資質に応じた役割を与えておりました。それは、あたか寡婦として子供たちに等し並みに十分な愛情を注げなかった償いをするかのようでした。
 歌集の名は、子の一人が遺歌集と呼ぶのをはばかって「第二歌集は何と名付けますか」と書き板に書いてたずねると、即座に「『露ある道以後』として頂戴」と、しっかりした声で言いきりました。十一月二十七日のことです。

 幼くて父に別れしその日より露ある道をわれは歩みき

 前歌集の後記に「拙い歌ではありますが、私の生涯の歩みを、いささかながら象徴するもののやうに思ひます」と記した俊子の思いは、終生のものだったのです。
(「跋/子供一同」より)

 

 

目次

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  • 昭和四十三年
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  • 昭和五十一年
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  • 昭和五十三年
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  • 昭和五十八年
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  • 昭和六十一年
  • 昭和六十二年
  • 昭和六十三年
  • 昭和六十四年・平成元年
  • 平成二年


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