1975年4月、陳秀喜来日記念詩集刊行会から刊行された陳秀喜の翻訳詩集。翻訳は大野芳。
序 中河與一
私の記憶する限りにおいて、台湾の詩人が日本で紹介されるのは、陳秀喜が初めてではないかと思ふ。あれほど、経済、文化などあらゆる面で、深い関係にありながら、いままで彼の地の詩人が、日本で紹介されなかったのが、不思議なぐらゐである。
元来、いかなる言語を用いようとも、詩人は詩作する場合、極めて厳格に、表現しようとする対象に肉迫してゐる。たとえほんの些細な言葉を吐いたにしろ、そこにこめられた言語からみなぎる生命力は、無限の深淵をもってゐるものだ。詩人の魂をもたぬ者が、いかに華麗で、激烈な語句を駆使しようとも、その詩は、生命力のない、木偶でしかない。
数年前、私は陳秀喜に会ふ機会を得た。日本語のたくみさは、しばしば、彼女が中国人であることを失念させるほどであった。それも、日本統治下で幼少時を過し、その教育を受けたものであれば、日本語が喋れることに、何の不思議もないが、彼女は和歌も能くし、『斗室(としつ)』といふ歌集も出版してゐる。むしろ平均的日本人以上の語学力をもってゐる、といっても過言ではないかもしれない。
このやうに、日本語の堪能な彼女が、ある時期に、中国語の詩作に身を転じたのである。一九七一年に出版した中国語詩集『覆葉』の後記に彼女は書いてゐる。「一九七〇年八月東京の”早苗書房”で出した日本語の歌集――『斗室』。その歌集が家に届けられたとき、私は己の生んだ嬰児のように、新しい本を格別いとほしんでいた。そのとき、私の娘たちは「片仮名」のそれらの本を、認めてくれないどころか、彼らは日本語が読めないために、その本にひと目もくれなかった。このようなことがあって、私は深く悟った、言語による隔絶を……。その時、中国語しかわからない娘たちにも読めるやうな詩を書かなければならぬと思った。」
彼女自身、日本語教育で成人し、中国人でありながら、中国語が解らぬことを恥じたことがあり、三十歳半ばになって中国語を学んだといふ苦労を経てあるから、なほさら、言語の問題にはいたく感ずるところがあったに違ひない。同時に彼女は、中国を最も愛する中国人でもある。それは、彼女が過日、日本の歌誌『山の辺』に寄せた歌を見ただけでも、理解できよう。台湾と日本の女を見分くるに耳朶見よと母に教わる
殖民に生れし女子なほさらに故国忘るなと耳環囁く
統治者の日本の童ら威を借りて殖民の娘の悲しみ知らず技巧もさることながら、歌を貫いてゐるものは、血液といふことであり、そこには、常に求道の精神がこもってゐる。その中に煩悶する姿こそ、その世代の悩みを代表してゐる。
彼女の詩の最大の特徴といえば、まづ文体の平易さといふことであり、暗喩や寓話が実に巧妙に使用せられてゐることである。
一九二一年、中国に於ては、現代詩運動が始まり、半世紀以上を経てゐる今日ですら、昔ながらの韻律を重んずる風潮は、根強くその影を残してゐる。さうした中で、彼女の詩は、自由で、平易な文体ながらも、言語の流暢さを失はず、生活体験を通して、その奥深い真実をとらへてゐるのである。しかも、直截な表現を用ひず、寓話や暗喩を用ひてゐるから、一語一句の滋味は、深く吾々には想像のつかぬものを持ってゐる。
内容的にいえば、彼女は、殖民された民族の悲哀の涙を、力強く己れの腕で拭いさらうとする母性と、現代の吾々が、ともすれば忘れがちな親や故郷に対する愛と思慕の両面の民族の根づよさで語って聞かせてくれる。ほんの瑣末なことでも、彼女の筆を通して語られると、それが珠玉の詩となって流れでてくる。そういふ意味からすれば、彼女は、忍耐強く世の流れを、静かに見守ってきた台湾中国人の語部なのかもしれない。
彼女はひとりの中国人として、日本統治下の台湾を、そして第二次世界大戦後、台湾にやってきた、中国本土からの同胞たちの所業を、そしてまた、これから羽ばたいて行かふとする若い青年や少女たちを、じっと見守ってきたに違ひない。そうした中で、屈辱の涙と、大いなる期待とが錯綜して、彼女の胸を衝いてほとばしりでたのが、これらの作品ではなからうか。
彼女は、詩誌「笠』をいつまでもつづけるといってある。将来の台湾をになふ若者たちが、自由に歌へる道しるべにならうとしてあるのである。それが彼女の現在おかれた立場だ、ということを、彼女自身が最も痛感してゐるやうである。
今日では、台湾と大陸中国では、その文化の基礎概念が全然ちがってきてあるやうである。
台湾は、中国の伝統を守り、儒教を大切とするのに、大陸中国は、それらを完全に捨てようとしてゐる。吾々は東洋文化の伝統を台湾に於てのみ知ることが出来る。今、陳秀喜はその立場に立って、これらの詩篇を発表した。
台湾の歴史を知らない日本の青年たちには、あるひは理解できない部分もあるかも知れない。然し、彼女の詩の行間にこめられた、慈母の深い嘆きと、無限抱擁的な愛とを、彼らがどのやうに理解するか、それは判然としないが、彼らは吾々が無くしてはならない何かをこれらの詩から学ぶに違ひない。それは東洋の歴史の中に深く残っている精神であって、それがいま、戦前、前後の語部の言葉として吾々の前に提出せられてゐる。彼女の経験した精神の遍歴と悲痛はふかいと云へる。大陸中国の現代詩は、一部で紹介されてゐるやうであるが、吾々に最も近く、且つ最も真率に東洋の伝統を保存しようとする台湾の詩は、一度も紹介せられてゐない。その時、陳秀喜の詩集が、日本で出版せられようとしてゐることは、誠に慶賀に堪えない。
一九七五年四月
(「序文/中河與一」より)
目次
序文 中河與一
第一集覆う葉
- 覆う葉
- 復活
- 初産
- 小さな春を惜しむ
- 父母心
- 汽車
- 道を急ぐ
- すかして視る
- 愛情
- お父さん!お願い…
- 帰る
- 誕生日の贈物
- ジャスミンの花
- 農暦五月十九夜の月
- きものを干す母
- かたちのない贈物
- 再会
- 美しいたわごと
- 今年の墓詣り
- 若葉
- ゴムまり
- 雨港
- きゃべつ1
- きゃべつ2
- 一杯のコーヒーから拾った宝石
- ふる里の樹
第二集樹の哀楽
- 私の筆
- 台湾
- 朝顔
- すみれ
- 魚
- 一輪の花の形にこぼれた酒
- 山と雲
- 造花
- 花絮
- 私は三人いる
- 湘河の詩
- 荒れた花園
- 束の間の美しさ
- 筍
- あんまさん
- 蝉のぬけがら
- 薔薇
- 樹の哀楽
後記 大野芳