1952年4月、創元社から刊行された宮澤賢治の遺稿詩集。編者は宮澤清六。
この詩集は「春と修羅」第二第三第四集のカード式詩稿から寫したものと、焼け残つたノートから収録したものとの二種類から成立つてゐる。前者は概ね全集所載の詩の第一稿又は異稿が大部分で、ノートは作品番號一〇三〇番から一○九〇番のもので「生徒諸君に寄せる」と大體同系列のものである。
終戦後、組合版「宮澤賢治文庫」に發表されたものや、全集未載のものでこの詩集に含まれるのが富然と思はれるものでも、都合で除いたものもある。
作者としては、廿数年も前に書いたものがいまごろ活字になつて發表されることを知つたら、照れたり恐縮したりして妙な顔をするにちがひない。實際、この中の或るものは、活字になることを嫌がるやうに、所々に迷路や檻穽を造つてゐたし、あるものはたんねんに消しゴムで消されてゐて、レンズを用ひてむりやり引き出したものもある。だから、比の詩集によつて賢治の詩にはじめて觸れる方へ、その特質を少し書いた方がいいと思ふ。
「春と修羅」の第一集を賢治は”心象スケッチ”と呼んだが、この詩集も”心象スケッチ”と呼ぶにふさはしいものが多いと思ふ。むしろ全集に發表されたものよりも、もつとさう言ふ方がぴつたりしてゐるものもある。
蓋し、人間が記録した作品で”心象スケッチ”でないものはないと同時に、完璧に心象をスケッチすることも人間には難しいことに相違ない。
瞬間毎に明滅する自分の心象を、今一人の別の自分が正確に書き取つて行くといふのは映寫と撮影を同時に同じ機械でやつて行くのに似てゐて、よほど難しいことだと思ふ。
「無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐僞である。」と農藝概論で言つたのも比の経験を言つたのであらう。また「春と修羅」第一集はこの方法の習作であると思ふ。
さういふ譯であるから、手帳をもつた賢治は歩きながら書き、汽車で書き、夜はね起きて書いた。山でも畑でも病床でも、まつ暗がりでも雨の中でも書いた。それが詩になるかどうかも、長い短いも、読者や批評なども全然考えないで書いた。それからその手帳をカード式の詩稿やノートにして置いて、時間があれば校正し、修正し、組合せ、抹消した。それは勞働の合間の遊びであり、「決死のわざ」であり、病床での苦痛の避難所でもあつた。
全く、連想は連想を生み、リズムをもつて一行づつ閃いて浮き出て来る楽しい詩草を、本能とも見える速度で書きとつて行くことは、慣れればどんなにか楽しい遊戯でもあつたらう。
「高原」「鬼語」「業の花びら(定稿)」のやうな数行から成り立つてゐる短篇は、”心象スケッチ”としては良心的な作と思つたであらうし、土を掘つたり歩いたり、汽車に乗つたりレコードをかけたりしながら書かれた詩は、やはりそのリズムに各々異つた特徴が見えてゐる。
スケッチに一番困るのは、全然連想の絲口もないやうな言葉が次々飛び出して来る時と、あるリズムを持つてゐた考えが何かのために一度に飛躍し、無軌道に奔翔する、あのベートーヴェンやチャイコースキーの交響曲に現はれるやうなあれである。賢治はそんな時に、よく括弧や…や行を開けることなどで不本意ながら間に合はせてある場合も多いやうだ。
(「後記/宮澤清六」より)
目次
- 夜
- 科學に關する流言
- 作品七四番
- 曉穹への嫉妬
- (十九世紀のはじめごろ)
- 觸媒
- 龍
- ローマンス
- 休息
- 赤い歪形
- 單體の歴史
- 鳥がどこかでまた靑じろい尖舌を出す
- 發電所
- 鑛山驛
- 間材見張り
- 電軌工事
- 汽車
- 實驗室小景
- 水の結婚
- 島祠
- 發動機船
- 路傍
- 種山ヶ原
- パート 一
- パート 二
- パート 三
- パート 四
- (黄や橙のかつぎによそひ)
- 昏い秋
- 溪
- 凶歲
- 作品七一五番
- 疲勞
- 山際
- 作品一〇二二番
- 作品一〇一四番
- 作品一〇三九番
- 淸潔法施行
- 作品一〇四四番
- 作品一〇四五番
- 第三藝術
- 作品一〇四八番
- 作品一〇五六ノ一番
- 作品一〇五六ノ二番
- 作品一〇五七ノ一番
- 作品一〇五九番
- 僚友
- 金策
- 作品一〇八〇ノ一番
- 作品一〇八一番
- 作品一〇八四番
- 作品一〇八五番
- 增水
- 作品一〇八八ノ二番
- 作品一〇八九番
- 作品一〇七一番
- 鬼語
- 鬼言(幻聽)
- 囈語
- 霜林幻想
- 病院の花壇
- 夏
- (あれはあすこの主人だよ)
- 菊芋
- 杉
- (もう二三べん)
- 藤根禁酒會へ贈る
- ダリヤ品評會に於けるスピーチ
- 休息
- (まぶしくやつれて)
- 林中亂思
- (馬が一疋)
- 路を問ふ
- 雨中謝辭
後記 宮澤淸六