1986年6月、砂子屋書房から刊行された守靖男(1948~)の詩集。本名は安森洋二。著者は北九州市生まれ、刊行時の住所は北九州市小倉北区。
およそ十年ほど前、高校の後輩である平出隆が処女詩集『旅籠屋』を上梓した時、ぼくは彼の晴れがましい出発に対する多少のやっかみと、時期尚早ではないのか、という危惧の念とが入り混った複雑な気持をこめて「とうとう取り返しのつかないことをしてしまったな。」と、やや皮肉な口調で電話口で話したのを今でも鮮やかに覚えている。
何故か「おめでとう。」と素直に拍手する気持にはなれなかったのだ。ちょうどその頃、ぼくは詩作をすっかり断念していたし、短歌という形式に興味を抱きはじめていたからでもあろうが……(そして電話の直後、阿佐ヶ谷駅前のスナックで逢い、その輝かしい詩集を受けとり、ほろ酔い気分で彼と十年間の東京生活とに別かれを告げたのだ。四国高松への片道乗車券だけを上着の内ポケットに入れて――。)しかし、その後の彼の順調な活躍ぶりを見るにつけて、その行為が結果的には時機をうまく捉えた素晴しい決断であった、と今さらながら感心しているのである。
それはともかく、今度はぼく自身がこうして彼よりも十年も遅れて処女詩集を出すことになった。あまりにも遅きにすぎたという感じであり、少しおもはゆい妙な気持である。ところで、ぼくの詩歴および詩作行為について少し詳しく記しておこう。
詩を書き始めたのは十六歳位からであり、書くことをやめたのは二十二歳のときである。
最も充実していた時期は、法政大学に入学してからの四年間、つまり十八歳から二十一歳までの間であろう。この間およそ三百篇余りの詩を書いたことになる。大学ノートにして二十冊をこえる。その中でなんらかの形で(大半は投稿だが)活字になった作品は約三十篇ほどあり、それらを選んでまとめたのが本書である。
当時のぼくは投稿という行為によって、一種の他流試合を挑んでいたように思われる。身近な大学内の文芸誌である富士見坂文学をはじめとして、現代詩手帖、芸術生活、詩学など、商業誌であるか否かを問わず、ことごとく、それこそみさかいもなく投稿した。
そして、掲載される確率はほぼ百パーセントであった。つまり落選することがほとんどなかったのである。しかし誤解のないように急いで補足しておくが、投稿が目的で詩を書いたのではけっしてない。どこへ発表するあてもなく悶々と書き綴られた多くの詩篇が、自らの発露をもとめ、作者のぼくを促して投稿に踏み切らせたというべきだろう。現に発表された作品の大半は、書かれてからすでに二、三年以上経過していたのである。そのことを知らない周囲の文学仲間たちは、これを見て投稿魔とか、器用貧乏とか、才能はあるが天才ではないとか、さまざまな悪口を言ったものだ。ぼくは十七歳から書き始めて十九歳で筆を折ったA・ランボーのことを勿論意識していたし、才能は二十歳までに使い果たすべきだともやはり真剣に考えていた。詩が青春の文学であること、青春とは二十歳までであること、そして、長く生きても三十歳までであること(立原道造は二十四歳で、富永太郎は二十五歳で、中原中也は三十歳で夭折した?)をひそかに胸に誓い、当時の不安な世相を反映した長髪スタイルで、毎日根無し草のように生きていた。東京の雑踏の片すみで……。全くあの当時―一九七〇年前後―一の東京は、セピア色の映画のように鮮明に脳裏に焼きついたままになっている。
投石、デモ、機動隊、ヘルメットの群れ、バリケードの山……いわゆる七〇年安保前後に青春時代を過した者の一人として、やはり当時の状況は、詩作の上にもなんらかの形で光と影を投げかけているものと思われる。
しかし、時代の状況を意識的に排斥しようとしていたぼくの詩作の第一のモチーフは、出口がなく、とらえどころのない鬱屈した感情を、なんとか形に残しておきたいという、やむにやまれぬ遺書めいた志とでも言うべきものであった。それはたとえるならば、氾濫をくりかえす川が、いつしか新たなる流れをつぎつぎと生みだして、曠野を拡がりあふれていく姿にも似ている。しかもそれは目に見えない部分、つまり川底においても、氾濫の足跡を歳月の中にふかく刻みこんでいるのだ。
あとから来た者たちは、必ずそこで立ちどまるにちがいない。そして、過ぎ去ってしまい、今は跡かたもない一すじの流れが、じつは自身の中にも受け継がれて、とうとうと音を立てて流れているのだということに気づくだろう。そのようなものを形として残すのだ。かけがえのない、二度と戻らない時間の奔流のただ中で。<青春>の己れの生きざまをさらして……。たしかにそう表現しても大きな誤りはないだろう。――詩作とは何だろう?
――それは書くことによってしか露わになることのない<何か>を追い求める果てしのない振り子運動だ。
――しかし、その<何か>を表現することは本当に可能なのだろうか?詩の一行一句を書いては消し、消しては書き、そう自問自答しては脱け出すことのできない網の目の中へと己れを追いこんでいく。まるで荒波に溺れる稚魚のようだった。あのもがき苦しんだつらい日々。毎日血を流しながら生きていた。ああ、しかしなんと長くまた短かい青春の日々よ。過ぎてしまえばみな美しい』という流行り歌の歌詞もある。そう、たしかに過ぎてしまえば、だが……。
言葉との格闘に疲れると、いつしか足は雑踏へと向かっていた。渋谷、新宿、池袋の映画館界隈を連日連夜のごとく出没した。ゴダール、フェリーニ、アントニオーニ、レネ、マル、デシーカ、ブニュエル、ベルイマン、ヴィスコンティ、パゾリーニ、トリュフォーなどヌーベルバーグの作品をしきりに観た。多いときには一日十本くらいつづけざまに。まるで白昼に夢を見るかのように。ストーリーの脈絡不明はすなわちわが人生の不徳の至りであった。不眠の夜はすなわちわが栄光の曙へのスタートだった。そしてまた、無数の映像が放つ熱いメッセージにも飽きると、音楽の洪水の中にも浸った。モーツァルトも、グールドのバッハも、ビル・エバンスも、ジョン・バエズも、シュプリームスも、レッドツェッペリンも、ジョン・ケージも、武満徹も、津軽じょんがら節も、岡林信康も、そして巷の艶歌もことごとく聴いた。すべてを排斥しすべてを受け入れた。すなわち音楽はわが躍動する魂の比そのものであり、ジャンルの違いなどどうでもよかったのだ。
街にはフーテン(おお、なんとなつかしき言葉よ!!)があふれ、唐十郎率いる赤テントの状況劇場、寺山修司率いる天井桟敷などのアンダーグラウンド演劇も盛んであった。
そして、学内ではバリケードが築かれ、「機動隊帰れ!」のシュプレヒコールがくりかえされていた。ヘルメットの群れがしだいに数を増し、「国家権力阻止」の立看板が日に日に増えていった。授業などというヤボなものはある筈がない。毎日が日曜日であり、祝祭であり、革命であり、儀式の日々であった。みな真剣勝負で生きていた。眼がきら星のように輝いていた。たとえ本当は深海魚のようにネクラな心情を携え、抱え、育み、持っていたのだとしても。ぼくにはすべて彼らの眼は、どんな高価な宝石よりも高貴な輝きを放っているように思われた。(ぼくもまた当然彼らの中の一人にちがいなかった。)……そして、時は流れた。
あれから十五年、詩作の現場から退いて久しい。ぼくはもう死火山になったのか?否!まだ休火山なのだ。いつなんどき、蓄えられた地下のエネルギーが、マグマを誘導し噴火するか、それはだれにも分からない。
むしろ無意識のうちに、そのことを願って本書を編もうとしたのではないか?いずれにしても、ここにまとめられた十七の詩篇は、書かれた時点から、すなわち推敲を放棄されたその瞬間から、作者であるぼくの引力圏から抜けだして無重力の<作品宇宙>をひとりさ迷っているのであろう。
しかし、そうはいってもこれらの作品は、それが生みだされる過程において、作者であるぼくと蜜月ともいうべき夢のようなふかく濃密な関わりの時間を持ちつづけたこともまた、まぎれのない事実である。
詩集の題名を『わが夢と比喩の蜜月』とした所以でもある。しかし、受胎した詩の核を心像へと、さらにそれを言語へと、そして比喩へと昇華していく作業には人しれぬ困難がつきまとう。それは一言でいえば、暗室でネガをポジに変える作業だとアナロジカルに表現してもよいであろう。
精神の暗室または密室を所有し、なおかつそれをだれの眼にも分かるように作品化、つまり言語化できなければ真の意味で詩人とはいえない。その困難を充分に乗りこえて、ある到達すべきぎりぎりのボーダーラインをクリアしているかどうか。つまり作品としての自立性を作品自体が獲得しているかどうか。それは読者各位の判断に任せることにしよう。
そしてそのことは作者のぼくがではなく、他ならぬ十七篇の作品が個々に願っていることでもあろう。何故なら作品を生みだした筈の作者は、もう二度とその作品の生成の現場へと足を踏み入れることはできないからである。時間は眠りつづける作者の背後で夢のように過ぎてしまう。しかし夢見られた作品は、一度形を与えられれば、その瞬間に覚醒し、作者の預り知らぬ時空を自由に飛翔する。当の作者はそのことを少しも覚えてはいない。まぎれもなく彼が夢見た作品であるにもかかわらず。これは奇妙なことだが、だれもが日常で経験していることではないか。(人はだれも昨夜見た夢を正確に思い出すことはできない。それは目覚めとともにビールの泡のようにあっという間に消えてしまう。しかし夢は、それが見られつつあるときには、この上もなく確かな現実性をもって存在していた筈である。)
したがって読者よ、ついに各自が夢を夢見ることによってしか、換言すれば、想像力により、作品の生成の現場へと足を踏み入れてへ不在の作者Vと関わることによってしか、その作品を真に体験できはしないであろう。(このことを想像による追体験または想像的創造と言う。)「そんなことが可能なのか?」と首をかしげる人がいるかもしれない。それに対しぼくは大きな声で真剣に答えよう。「勿論、可能だとも!」しかし、その為には「読むこと」が限りなく「書くこと」と等価であるような磁場へと己れを止揚しなければならないであろう。すなわち読むことは創りだす行為でもあり、作品世界とは半分は作者が、残りの半分は読者が、想像力によって自分で創りだすべきものなのである。
最後に、やや不遜ではあるが、この詩集が契機となり、読者の中のだれか一人が日常の地平をこえて、夢という広大な未知の曠野へ旅立たれんことを切に願っている。
(「あとがき日常(=状況)と夢の狭間で」より)
目次
序 孤島にて
Ⅰ
- 肉屋のアンニュイ
- 寂しい家
- 方法叙説
- 来歴
- 絵
- ぼくはとどまる
Ⅱ
- 石畳
- そのとき、
- 椅子
- 弄働歌
- おれがどぶろくだったら
- 望遠鏡からの告示
Ⅲ
- 夜廻りボーラン
- 出航=新生
- 猫やなぎ橋あるいは夜の遊泳
- エンゼルココナッツ
- 逆説的な敗残兵のうた
あとがき日常(=状況)と夢の狭間で
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