1990年7月、編集工房ノアから刊行された平塚景堂(1949~)の第1詩集。
現在、わたしには詩を書く習慣がほとんどない。詩集も余り読まない。詩人というひとたちも知らない。それなのに、いつの頃からか、詩というものは何か根源的なまっさらな問いの形式としてあるのだという、かすかな《感じ》をいだいていた。ずっとそうだった。
一九八八年に、ごく世間的なつながりから長谷川進氏を知ったが、そのひとが詩人だった。『あわわん』というすぐれた詩集があって、一九八九年の初春にその詩集の朗読会用にピアノ曲を二十四曲書いた。それをいろんな人が聴いてくれて、富山の野海青児氏や近江詩人会の大野新氏や藤本直規氏もそうだった。『あわわん』のおかげで、詩人のひとたちの聴覚を経て、わたし自身の詩に対する姿勢を伝達することになった。
すると興が湧いて、今度は詩そのものの方から、じかにわたしをつきあげて来た。それでわたしは急いで。同年の八月から十二月にかけて詩を書いた。それが『静かな夜の記録』としてまとめられた。
さらにさかのぼること十年前、一九七九年にも詩を書きつけたノートがあったが、いったいどうゆう状況で書いたものか、今ではほとんど記憶にない。
一九八三年に、一編の詩を拡大して詩劇を書いた。これはまたポツリと孤立していて、上演できる性質のものではないので、詩集の後尾に付けたした。
それにしても詩人とは、どんな人種のことなのか? もっとわからないのは詩を書いてメシを喰うとはどうゆうことなのか。こんな疑問をいだかせる所に、詩の非社会性があるのだろう。いや、詩は立派に社会性を持っている、というのなら、わたしが詩に対して何か思い違いをしているのだろう。
(「後記」より)
目次
Ⅰ 静かな夜の記録――一九八九年八月~十二月
- 「スタジオ・ヴァリエ」ヴァリアント
- 遊休倉庫のためのトランパー
- レストラン「ボルカノ」の食人種たち
- 「紀國屋」メモ
- 富山「近代美術館」通り抜け
- 冷凍詩篇
- アメリカの歩きかた
- 夜の音楽
- 「無」の数えうた
- 「有」の数えうた
- 静かな夜の記録
- 世の終りのための終章
Ⅱ 一九七九年――古い詩帳より
- 七つの詩
- オムの肖像
- 宇治拾留(シュール)物語
- 法然院往還
Ⅲ 詩劇「オムの伝記」――一九八三年
- 詩劇「オムの伝記」――詩「オムの肖像」より
後記