八重洋一郎を辿る いのちから衝く歴史と文明 鹿野政直

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 2020年1月、洪水企画から刊行された鹿野政直(1931~)による八重洋一郎論。装幀は巌谷純介。著者は早稲田大学名誉教授。妻は堀場清子。

 

 二〇一五年秋、『季刊未来』(五八一号)での、八重洋一郎の、「南西諸島防衛構想とは何か――辺境から見た安倍政権の生態」と題する論説は、わたしに食い込んだ。それは、歴史を顧み世界の現況を見渡しつつ、政権が進める「防衛」構想での石垣島の位置を、中国を誘い出すための「生き餌」と断じ、「辺境はその敏感な恐怖の故に中央の鈍感な自己陶酔者を底の底まで透視する」と結ばれていた。
 それまでわたしは、この詩人の、さほど熱心な読者とはいいかねる人間であった。一九七二年五月一五日という沖縄の復帰(=施政権の日本への返還)の日にぶち当てて刊行した最初の詩集『素描』(世塩社)、正確にいえばその「あとがき」は、深く印象に留まっていたものの(それとて、古書で購入した)、接しえた作品は、そうじて難解で、近寄りがたかった。だが、この論説は、わたしを一挙に八重洋一郎へと駆り立てた。つづいて出された詩集『日毒』(コールサック社、二〇一七年)は、その関心を決定的とした。
 思い立って、伺ってお話を聴きたいという願いを、八重さんは寛大にも聞き届けられ、二〇一七年の晩秋、わたしにとって四〇年ぶりの八重山行が実現した。思いもかけず氏は、草稿と資料まで整えて談話を準備しておられ、行をともにした三人のヤマトからの来訪者、岩波書店編集部の入江仰さん、伴侶の堀場清子とわたしは、至福の半日を享受した。談話の一端は、小著『沖縄の淵 伊波普猷とその時代』の岩波現代文庫版(二〇一八年)に、「付歴史との邂逅――『日毒』という言葉」として、掲載させていただいた。
 そのさい、わたしは、掲載を許された御厚意への感謝とともに、「その全容を示すことができなかった非礼を、またの機会を期しつつお詫びする」と記した。このことばが、わたしを縛り、背中を押した。こうして始めた八重洋一郎への旅は、断崖に挑むというしんどさに、しばしばわたしを突き落としつつも、二〇一八年後半から翌一九年初めにかけて、ようやくこの稿の原型となった。
 八重洋一郎を、詩集とした形の作品を素材として、わたしなりの角度から、文字通り「辿った」小稿に過ぎない。大方は、詩人のことばを、繋いだにとどまる。それらの作品の、詩誌ででの初出への探索や、詩人たちとの交流また相互触発の跡づけには、力尽きた感じで及ばなかった。さらに、八重が、書きつづけてきた詩論を一冊とした『詩学・解析ノート わがユリイカ』(澪標、二〇一二年)には、立ち入る力を欠いた。そのうえ、詩人論という不案内な分野で、どんな誤りがあるかもとの念が、わたしを脅かす。ただ、辿るなかで、八重山を軸とするとき、「琉毒」、「日毒」、「米毒」を刺し貫く切っ先が見えてくるような気がした。同時に、受難に明け暮れたかに印象づけられてきた八重山(実際には、ほとんど「石垣島」に終始してしまったが)の歴史のなかで、それを覆すような渾身の憤怒が、彼のからだを通して噴き出ているとの感に打たれた。
 初めは公表を意図したものではない。不熟を承知で、ただ、爆発する八重洋一郎への敬意の、ささやかなしるしとして、今年(二〇一九年)の春、ともかく形を稿を、氏に捧げた。初歩的なそれを含めて誤りを指摘されれば、この詩人との応答が得られ、理解への導きが開けるかもとの期待があった。意想外の反応が、氏から返ってきて、その激励が、わたしを小稿の公刊に踏み切らせた。そう決意してからは、手直しせざるをえなくなり、この夏を作業に当てたが、その点に関しては、八重洋一郎・竹原恭子御夫妻の惜しみなき御示教にあずかった。もっとも、記述については、責任はもとより著者にある。
 全体重を載せたことばを突きだしているため、八重の詩語には、差別とみまがう水域に食い込んだ表現を散見する。だが、それらは発想・表現の必然の所産と考え、そのまま受けとめた。
(「あとがき」より)

 

目次

  • 一 辺隅の島
  • 二 旅立ち
  • 三 詩人の誕生
  • 四 ふるさと
  • 五 「爆発への凝集」
  • 六 死者たちをみつめる 帰郷前後
  • 七 「新しい文法をつかみだせ」
  • 八 いのちの連鎖 歓喜と憤怒
  • 九 「ここは人間の住む島だ」

あとがき


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