野溝七生子というひと 散けし団欒(あらけしまどい) 矢川澄子

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 1990年1月、晶文社から刊行された矢川澄子による野溝七生子の評伝。ブックデザインは平野甲賀

 

 あとがきのない本、というのがかねてひとつの理想だった。しかし、今度ばかりはこのページののこされていることをどんなにありがたく思ったかしれない。それほどにも発育不全のまま、この書はいま手許を去ってゆくのである。
 運よく一人歩きしていってまたあらたな愛や出逢いにめぐまれ、ひとつの血統の生き証しとなってくれるだろうか。こころぼそい旅立ちをまえにして、母親としてはとりあえず取りちらかした台所をひっかきまわし、せめてもの弁当づくりにせいだすしかない。はたしていまさらこの子の肉づけになってく れるかどうか。

 まず、この本ではじめて野溝七生子の名に接する方々のために、いちおうの人物紹介をこころみなくてはならない。
 野溝七生子は明治三十年、陸軍軍人の娘に生まれた。同志社を経て東洋大学に在学中、長篇小説「山梔」が福岡日日新聞の懸賞に当選して、作家としての道を歩みはじめる。関東大震災の翌年、作者二十六歳のときである。その後、長篇第二作「女獣心理」と、未公刊の「眉輪」とのほかに、数十篇の短篇小説を執筆したりしたが、戦後はその学殖を見込まれて母校東洋大学の国文学科教授に就任。その後は創作よりももっぱら学究三昧に徹し、都心のホテルを定宿として定年後も比較文学的見地から鴎外研究を発表するなど、いわゆる文壇とはほとんど無縁の優雅な生活をつづけていた。
 野溝七生子の名がふたたびマス・コミに取沙汰されるようになったのは、それから三十年以上もたって最晩年のことである。一九八二(昭五七)年、ある雑誌に連載中のA女史の大杉栄評伝に、六月号と十月号の二度にわたり、辻潤をめぐる女性たちのひとりとして、野溝七生子が登場してきたのだった。
 のちにまとめられた単行本では大幅に削除がほどこされており、ただ辻潤比叡山で知りあって「命がけで惚れた永遠の女性」とあるだけで氏名も明らかにされてはいない。A女史は六月号の発表直後に 自分の杜撰さに気づき、早速十月号で全面的に陣謝したのだけれども、もはや相手には通じなかった。
 長年の文学史研究で野溝七生子は、いいかげんな実名小説が史実を歪曲することの危険を告発しつづけてきたのだった。それが、このたびは他人事ならず、まさしくわが身の上に起ったのである。「戦うべきものができた、久々に生き甲斐がわいてきた」とまでいいきったあのときの野溝七生子の、一種すがすがしい怒りの表情をいまだにわたしはわすれない。
 とはいえ、長年はりつめてきたこのひとの神経に、この一件はあまりにも負担が大きすぎたのだろう。八二年秋から翌春にかけて、この老女の言動は日ましにおかしくなっていった。身のまわりにはさまざまな仮想敵が跳梁しはじめ、最後の頃にはコーヒーハウスでいっしょにお茶をのんでいても、「スパイがきき耳をたてているから」と声をひそめて相手に筆談を強いるまでになっていた。
 もともと明晰な頭脳を侍みにいっさいをわが手で取仕切ってきたひとだけに、いったん狂いが生じると崩壊はあっけないほど速かであった。

 立風書房の一巻本作品集が計画されたのは、ちょうどこの時期と重なっている。
 八三年四月、作品集の解説をようやく脱稿しかけていたわたしのところへ、野溝さんがついにホテル滞在をことわられ、姪御さんたちの手配でやむなく都下の老人専門病院へ送りこまれたという知らせがつたわってきた。
 優雅な老婦人のホテル住まいはこのようにして打切られるさだめだったのか。いまさら解説を書きあらためることは難しかった。というより、できればこのままそっとして、美しく終らせてあげたかった。じっさい彼女のつらぬいてきた八十年の見事さに比べれば、ここ半年の狂態はほんのいっときの病いとみなすこともできよう。ただし彼女がふたたび立直ることは歳からいってもはや望めないけれども。 「〈わたしひとりの部屋〉から」と題する解説文はこのようにして数多の矛盾をのこしたまま活字化された。しかし、これでいいのか、はたしてこれでほんとうに野溝七生子のすがたを世に伝えたことになるのかという思いは、その後もたえずわたしにつきまとった。ひとつにはこの事件と前後して両親の最期をみとり、人それぞれの老境のありかたについていろいろと考えさせられたこともある。
 そこへちょうど旧知の森和さんから、以前に書いた「わたしの一九三〇年代覚え書き」のつづきのようなものをとお声がかかり、肉親のことは直接語りにくいけれども野溝さんのことならば、というかたちでお招きにのることにしたのだった。それが本書のそもそものはじまりである。
野溝七生子というひと」は、こうして一九八七年七月~十二月と、八八年四月~十月の二度にわたり、 それぞれ六回ずつ、「L'E」と「par AVION」に連載された。いずれも加賀山弘氏の編集になる、いまは幻の名雑誌である。
 お読みになればおわかりのように、ここには多くの迷いや思いちがいをそのままぶっつけてある。とりわけ後半、鎌田敬止氏に関するあたりは、歌壇の実状にはまるきり疎い子供の探検記みたいなものなので、どのように読まれることか、いまから冷汗ものである。
 弁解は本文中にもあれこれ盛りこんであるので、このくらいにしよう。
(「あとがき」より)

 

目次

  • マズハ鎮魂ノタメニ
  • 孝行の経済学
  • 光ト、闇ト
  • ”と”の効用について
  • NOW OR NEVER! もしくは別れの美学
  • 救われない子供たち。
  • 詩と真実
  • 内なる家
  • 失われた兄たち
  • 短歌とラグビー
  • 新風のゆくえ
  • ある結婚否定論の結末
  • 散けし団欒

野溝七生子鎌田敬止略年譜
あとがき


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