1967年9月、私家版として刊行された松田修(1927~2004)の第2歌集。題字は塚本邦雄、カットは内田太一。
「装飾古墳」は、四十一年二月に上梓した第一歌集「靠身文書」のあと、ほぼ一年間のうち二百十首を集めたものである。一年間の作品として、数は必ずしもすくなくはあるまい。しかし、それだけに削らねばならぬ多くを、ことさらに惜しむ心に溺れてしまった。
すでに中年の私であってみれば、いずれ着かえねばならぬ衣は、手ばしかくぬぎすてるにこしたことはないと、これはあさましい計算精神でもあった。
「靠身文書」上梓のとき、諸氏のよせられたことばを、今思いうかベると――
塚本邦雄氏は、それを「女々しきうた」と評された。思うに、方法的な私の臆病、あるいは保守性への指摘であった。私なりにこの一年、あれこれと模索は続けてみたけれども、氏のことばを借りれば「まがりなりにもまっすぐにも」迢空のよみくちは私にとっての骨がらみ、私は私でしかありえぬようである。
佐竹昭広氏は「狂気」と評された。それはおそらく素材を指すことばであった。この第二歌集で、私はいぜんとして、方法の狂気に到達していない。そのことをはじている。
春日井建氏の裁断どおり、うたは私の「趣味」であり、「気まぐれの遊び」にすぎないのかもしれぬ。しかし、その遊びに、私はむしろ自覚的にふかいりしているのだ。
某月某日、福岡県桂川町土師の装飾古墳を見学して、私は強列な印象を受け、その印象のままに、題名とした。題字を寄せられた塚本邦雄氏、カットをかいて下さった内田太一氏に、深謝の意を表したい。
(「後記」より)
目次
- 序歌
- 呪禱
- 祭祀
- 羨室
- 羨門
- 玄室
- 回帰
- 周湟
後記