1976年3月、新評社から刊行された金子光晴(1895~1975)の回想録。速記は岡田真美、口絵写真は細川隆平。
死の直前まで、白いシーツを渾身の力で握りしめることのかわりに、筆を執りつづけてもいた金子光晴だが、さすがにいくつかの未完稿をのこした。本書もまたその一つである。
これらがいつ書かれ、いつカセット・テープに語りこまれたのか私は知らない。担当の佐藤修子さんの話によれば、本書はテープにむかって独り語りした話者の言葉を原稿におこし、手直しし、それを一冊にまとめるといった企画からはじまったもののようである。しかしともかくも語り終えた(?)話者は、たんなる手直しを不満とし、本書の冒頭(I)にみられるような文章を書きはじめたという。ほぼ百枚に近い原稿をのこしてついに未完となってしまったのだ。
いま冒頭の百枚ほどの原稿をみれば、テープに語りこんだ、原稿におこせば五百枚にも及ぶ『三界交友録』はおそらくは廃棄するつもりであったと思われる。もともと金子光晴は自分のしゃべった言葉を手軽に手直しするていの作業は信用していなかったのだ。かって多くの対談なども試み、諸雑誌を賑わしたが、それはそれきりのことで、もしこれは気を入れなければならぬとした場合、しゃべったそれらの言葉の群は完膚なきまでに手を入れられ、しゃべった形にそいながらも、すべては新しく生れかわるのが常だった。例えば詩誌『あいなめ』に松本亮を相手に語った「あいなめ談議」がそれであり、それがさらに『新雑事秘辛』として単行本化されるとき、より激しく朱が入ったのだった。
<ひいさん〉〈銅駝尋常高等小学校〉などからはじまる本文を一読するとき、これまで他からの依頼によるおびただしい交友録ないしは自伝をこりもせず、時にはだぶりながら書いてきた金子光晴だが、最晩年に及んで、いっそうの力をふりしぼり、決定的な稿を仕上げようとの意気込みにかられた様相がほの見える。悲壮とさえ見える。
私はたじろいだのである。これら未完の文章のあとに、本人亡きあと、おそらくは本人の廃棄の意志のよみとれるテープ起こしの文章を単行本化のためとはいえ、併載しようとの愚を犯すことの意味は何なのか。手直しの依頼をうけた私は何をすればよかったのだろう。
いたずらに時は経ち、私はただ、金子光晴の語り口そのままを極度に温存し、かつての交友録とあまりにも似通う部分は切り落し、とび交う話題に一応の道すじを与えるにとどめた。この部分では、いまは亡き金子光晴のありのままな語り口を寛容のこころに、ゆるやかに楽しまれんことを願うばかりである。
(「跋/松本亮」より)
目次
Ⅰ
- ひいさん
- 銅駝尋常高等小学校
- 井上と浅井という学友
- 東京の悪童たち
- 中学校の友人たち
Ⅱ
- 石井有二
- 金子荘太郎
- 佐々木茂索
- 小松原健吉
- 富田砕花
- 佐藤惣之助
- 辻潤
- 川路柳虹
- 福士幸次郎と『楽園』の連中
- サトウハチロー
- 平野威馬雄や『風景画』の連中
- 森三千代
- 尾崎喜八
- 中西悟堂
- 大木惇夫
- 山之口貘
- 吉田一穂
- 岡本潤
- 室生犀星
- 富永次郎とその周辺
- 田漢
- 郁達夫と魯迅
- 西村光月と馬場譲一郎
- 「第二次世界大戦」前後の生活と交友
- 戦後の知友たち
跋 松本亮